初めての人間の村 (前編)

 北の海に突き当たったアテルイとカノンは、荒波にしぶきを浴びながら立ち尽くしていた。


 潮風は冷たく肌を刺し、砕ける白波はまるで壁のように行く手を阻む。水平線の向こうにかすかな陸影が見えるが、そこへ至るには――船が必要だった。




 アテルイは拳を握り、唇を噛む。


「……ここで立ち尽くしても、何も変わらん。人の村へ行くしかあるまい」




 彼の脳裏には、ここへ来る途中で目にした漁村の光景が浮かんでいた。海岸に並ぶ粗末な小屋と、干し網。そして陽光を反射する数隻の舟。


「あの村なら船がある。俺の力と、お前の糸で補強すれば渡れるはずだ。幸い、陸地はかすかに見える……食料さえあれば、たどり着けよう」




 言葉を受けたカノンは、わずかに八本の脚を縮こまらせた。


「……けれど、この姿では人の目に晒されるわけにはいきません。わたしは茂みに身を潜めます。あなた一人で――行けますか、アテルイ」




 彼女は銀糸を紡ぎ、急ごしらえの衣を織り上げる。粗末ながらも人の衣服に似せたそれを差し出すと、ほんの一瞬、ためらうように視線を伏せた。



 アテルイは無言でそれを受け取った。粗布に指を滑らせたとき、ただの衣以上のものを感じる。急ごしらえであっても、そこには彼女の心遣いが込められていた。


 自分のためにここまでしてくれた――その事実に胸の奥が熱くなる。


表には出さず、ただ静かに感謝を抱いた。

 その感情を胸に秘め、アテルイは衣を纏い、腰に剣を差すと、決然と村へと歩みを進めた。




 海辺の漁村。


 潮の匂いと炙られた魚の香ばしさ、そこにかすかに混じる生臭さが鼻を突く。軒先には干物が並び、波風に削られた小屋は低く、道を行き交う者の数はまばらだった。




 しかし、異邦の者の影が現れるや否や、村の空気は一変した。


「な……誰だ、あれは!」


「見たこともない衣だぞ!」


 女たちが悲鳴を上げ、子供は泣き叫ぶ。




 アテルイは拙い言葉を探した。


「あ……フネが……ほしい。だれか……話したい」


 その響きは、かえって不気味に聞こえた。




 騒ぎを聞きつけた男たちが石で作られた槍や鍬を手に取り、円を描くように取り囲む。


「なんだ、その面妖な顔は……鬼か! いや、魔物の類か!」


「その剣……交易でもらった大和のものにも似ているが...... だが服装は奇怪すぎる!」




 この土地の人々にとって、交易品はもらっていたが南部ほどではなく大和は他民族。


 そして異形は「古き怪異の再来」。


 どちらにしてもあまり歓迎されない対象だった。




 男の一人がしびれを切らし、石槍の穂先を突き出した。


 アテルイは反射的に身をひねり、刃先をかわしたが、頬に浅い傷を負う。




 だが運悪く、村人たちはその傷がたちどころに塞がっていく様を見てしまった。


「……!」


「ま、魔物だ! 殺しても死なぬぞ!」




 恐怖は怒号へ変わり、村人たちは一斉に石を投げつける。


 アテルイは眉をひそめ、反撃せんと手を伸ばしたが――剣を抜けば、さらに「怪物」と見なされるのは明白だった。


 彼は深く息を吐き、抵抗をやめた。




 こうしてアテルイは「殺し方のわからぬ異人」として一時捕らえられ、粗末な納屋へ押し込められた。両腕には縄が食い込み、扉には太い木の閂が打ち付けられる。




 夕刻。


 納屋の戸口に影が差す。現れたのは村長だった。


 深い皺の刻まれた顔に、眼光だけは鋭さを宿している。




「何者だ、おぬし」


 低い声が響く。


 アテルイは沈黙を守った。




 村長は彼の衣と剣を睨みつける。


「その服は……布の質が違う。見たこともない。剣も上等な造りだ。どこで手に入れた」


「……答える必要はない」


「ならばなぜ、傷が塞がる! 魔のものでもなければ、あり得ぬ!」




 アテルイの瞳がかすかに揺れた。


 真実を告げれば、ますます恐れられ排斥されるだけだ。


彼は言葉を選び、短く答えた。


「……船が、ほしい。それだけだ」




 村長はしばし無言で彼を見据えた後、困ったようにぶつぶつと呟きながら去った。


「……この時節に、厄介なことよ。祭祀の夜だというに……」




 その頃。


 村外れの木陰に潜むカノンは、闇夜に紛れて村に忍び寄っていた。彼女の一族は夜目が利く。さらに糸を張り巡らせ、声や気配を拾うことで村の内情を探っていた。




 そして――耳にした。


「……今宵、生贄を……▪️▪️▪️の神へ捧げねば、村が滅ぶ急ぎしたくを宵の刻にはあそこに向かわねば行けないです念のため村のものを全員集めておいてください」


 村長と巫女らしき女が、怯えた少女をアテルイの隣の納屋へ押し込むところだった。




 小さな身体、恐怖に濡れた瞳。


 カノンの胸に鋭い痛みが走る。


 次の瞬間、彼女は藁葺きの屋根から降り、音を漏らさぬよう慎重に納屋に入り、闇の中から少女を拾い上げていた。




「恐れるな、今なら逃げられる」


 静かに囁いたが――。




「た、助け……いや、いやぁぁ! 化け物!」


 少女の叫びが夜気を裂き、松明が揺れ、周囲の村人が気づいた。




 槍を手にした見張りが駆け寄る。カノンは少女を抱えていきおいよく扉をあけ、アテルイの幽閉されている納屋へ飛び込む。


「……アテルイ!」




 縄に縛られていたアテルイがゆっくりと顔を上げる。


 だが背後から見張りの槍が迫る――その瞬間。




 アテルイの身体から、眩い光が奔った。


 熱気を帯びた風が渦を巻き、納屋の壁が轟音とともに吹き飛ぶ。


 押し寄せる圧力に、見張りたちは一斉に膝を折った。




「ひっ……!」


「もしや……アラハバキ様か……?」




 アテルイはゆっくりと立ち上がり、鋼のごとき眼差しで村人を睨み据える。


「……これ以上、黙っていられない」




 その声は雷鳴のように村を震わせ、夜空に響き渡った。




 松明の火が乱れ揺れ、村人の顔は蒼白に染まる。恐怖に駆られた人々は次々と逃げ去り、広場にはアテルイとカノン、そして彼女の腕に抱かれた少女だけが残された。




 夜風が吹き抜け、波音が寄せては返す。


 やがて静寂の中、震える足取りで村長が一歩、また一歩と近づいてきた――。

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