カノン視点① ― アテルイ様と私の旅路
――私が彼と旅をするようになって、まだ数日しか経っていない。
アテルイという黒髪の青年――いや、神というべきなのだろうか。
出会ったばかりの頃、洞窟を出た後の彼はほとんど口を開かず、心を固く閉ざしたまま歩いていた。けれど、夜に焚き火の光がその横顔を照らすと――ふとした拍子に、十七、十八の少年にしか見えぬあどけなさが浮かぶ。星を仰ぐ眼差しは、戦士のものというより、遠い旅路に憧れる若者のそれだった。
矛盾している。神のごとき威圧と、少年の未熟さ。どちらも彼の中に同居していた。
彼は「人」ではない。
神気――それを一度でも感じたことのある私には分かる。彼の身を覆う見えざる圧、致命の傷をも癒やす理不尽な力。それはただの人間には絶対にありえない。まるで神そのものの残滓を纏っているかのようだ。
なのに――なぜ、この辺境に堕ちているのか。どうして地上を彷徨っているのか。理解できなかった。
私は蜘蛛に堕とされた血筋を持つ。理不尽に異形へと変えられた一族。だからこそ知っている。神の座にある者と、追放された者との「格」の違いを。
アテルイは、地上にいるべきではない存在。だからこそ彼の沈黙は私の胸をざわつかせる。彼はなぜ、ここにいるのか――。
そうした疑問を抱えていたある夜のこと。旅の途中、森の外れで焚き火を囲んだ。
アテルイは洞窟で干した獣肉を串に刺し、火にかざしている。言葉はなく、炎を見つめるばかり。やがて首を傾け、静かに空を仰いだ。
私はその視線を追った。
夜空の星々。だが彼の眼差しは、この大地ではなく――かつて在った神々の座を、なお見ているように思えた。
気づけば、口を開いていた。
「……お聞きしても、よろしいでしょうか。
あなたのような御方が、この異国に……なぜ、ここにおられるのですか」
声は慎重に、糸を紡ぐように柔らかくした。彼を怒らせてはならない。
しばしの沈黙。炎がはぜる音だけが響いた。
やがて、彼は低く言った。
「別に、語るほどのことではない。ただ、自分の血の宿命のようなものだ。表向きは運命を変えるためにこちらへ来たが……なぜここに送られたのかは分からぬ。送られる前は、ずっとある神殿に閉じ込められていた。そして――出ていくとき、笑っていた神もいた」
どこか諦めたようで、淡々とした響き。だがその奥に、抑え込んだ怒りと悔しさが滲んでいた。
私はそれ以上問いただせなかった。けれど、その沈黙の匂いは私自身のものと同じだった。
神に裁かれ、断ち切られた者だけがまとう孤独。だからこそ、彼を遠ざけることができなかった。
翌朝。洞窟にあった食料が乏しくなり、森の奥で狩りをすることにした。
アテルイは茂みの向こうに小鹿の影を見つけ、素早く追った。だが神気が強すぎるのか、動物たちは彼の気配を察して怯え、鹿も猪も一目散に逃げ去ってしまう。
そのたびに彼は、まるで子供のように肩を落とした。
「逃げられたか……」
昨夜の怒りを孕んだ沈黙の男とは違う。そこにいたのは、獲物を取り逃がしてしょんぼりする少年だった。
思わず私は笑ってしまった。そして木々の間に糸を編み、森の風に溶け込ませることを提案した。
やがて一頭の猪が罠に駆け込み、絡め取られる。アテルイが駆け寄り、剣を振るって仕留めた。
そのとき、彼は私を振り返り、言葉少なに――だが確かに笑みをにじませて言った。
「……やったな、カノン。捕れたぞ。お前のおかげだ」
胸の奥が熱くなった。ここに落とされて以来、人に感謝されることなどなかった。ましてや神気をまとう存在から。私はその言葉を、ひどく嬉しく思った。
それ以来、この神――いや青年アテルイと、少しずつ打ち解けて話すようになった。
あるとき、私は思い切ってまたほかの質問を尋ねてみた。
「……あの、アテルイ様はどうして私を見ても、あまり怖がらないのです?」
彼は少しだけ考えてから、静かに答えた。
「そうだな……神殿にいたときは、話し相手がほとんどいなかった。それに、自分と同じ姿をした者には、良いことをされた記憶がなくてな」
そこで言葉を切り、苦く笑う。
「それと、“アテルイ様”ではなくていい。アテルイと呼んでくれ」
私は思わず頷いた。けれど胸の奥では「神殿とはどんな場所なのか」「なぜ彼はそんな経験をしたのか」と、不思議が次々と膨らんでいた。
それでも――会話を重ねるたびに、その沈黙の奥へ少しずつ近づけている気がした。
やがて道中、アテルイがふと口にした。
「そういえば……この国の言葉を覚えねばならんな」
私は笑みをこぼして答えた。
「口語でよければ、私が教えます」
こうして、私たちは言葉を交わしながら歩くようになった。
彼が言葉を覚えるたび、私の中の疑問もまた増えていった。だがそれでもいい。
――彼を知りたい。なぜ沈黙を守り続けるのか、なぜ怒りを隠すのか。
蜘蛛に堕とされた身である私だからこそ、彼を糸で縛るのではなく、言葉で少しずつ繋ぎとめたい。
その思いだけが、確かに私を前へ進ませていた。
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