北の果てに広がる海

 洞窟の空気は湿り気を帯び、銀の糸と血のにおいが入り混じっている。まるで長い年月がここに凝縮されているようで、胸の奥まで重く沈み込んでくる。




 クモの女に最初に声をかけたとき、彼の視線は自然と捕らえられていた。蜘蛛の脚に覆われた異形の身体。だが――どうしてか、アテルイはそこから目を逸らせなかった。彼女の瞳は深い泉のように澄み、底知れぬ知性を湛えていたからだ。




 銀糸に照らされたその顔は、夜の月光のごとく淡く輝いている。肩まで流れる髪は銀の瀑布のように光り、整った顔立ちは女神アテナに勝るとも劣らない。蜘蛛の体を持ちながら、どこか神聖で近寄りがたい美。アテルイは無意識のうちに、その眼差しに引き込まれていた。




 アテルイは剣を収め、少し彼女を見つめてから低く言う。


「真実を聞かせてくれ。ここで何があったのか――そして、あの“少女”は何者なのか」




 問いに応じるように、女は弱々しく顔を上げた。腰から下には八本の脚がのたうつ異形。だが、その表情は人の女のものだった。




「……わたしは……カノン……」




 名を告げると、彼女の瞳が鋭く揺れる。アテルイの胸の奥に宿る何かを感じ取ったのだ。




「まさか……神気……。神の座にある者しかまとうことのない気を……なぜ、あなたのような方がここに?」




 アテルイは沈黙を貫いた。神気――本来、神々だけが持つ不可侵の力。不死をもたらし、老いを寄せ付けず、常人をはるかに超える力を与えるもの。確かに自分は致命の傷を負っても立ち上がれた。剣も手に馴染み、誰よりも鋭く振るえる。だがそれは本来の神気よりは程遠い。むしろ呪いに縛られた残滓のような力であった。




 カノンは驚きを隠さず続ける。


「この地で神気をまとう者と出会うとは……。私は、ずっと昔に……神々の裁きでここに送られたのです」




 アテルイの胸に、裁きの場の光景がよみがえる。大理石の柱に囲まれた神々の法廷。ゼウスの雷鳴の声。縛られた両腕。告げられた追放。――自分と同じ運命を辿った者が、この異国にいた。




 カノンは断片的に過去を語った。この地に落とされたのは数十年前。森に現れたその日、彼女はすぐに捕らえられた。




「本来なら怪異として処刑されていたでしょう。ですが……私は糸を紡ぎ、衣を織る。それだけが取り柄でした。森の主はその技を見込み、殺さずに鎖でつなぎ……衣服や袋を作らせ続けたのです」




 アテルイは洞窟の壁際を見渡す。石の台に残る火の跡、並べられた織機、月光を閉じ込めたような銀糸の束。すべてが彼女の労働の証であった。




 数十年もの間、彼女はただ鎖に繋がれたまま、ひたすら糸を紡ぎ続けてきたのだ。その監視役を担っていたのが――アテルイをここへ誘ったあの少女。だがその正体は、“童”と呼ばれる物の怪であった。




 アテルイは剣を握り直す。偽りの少女。泣き声で誘い、彼をこの洞窟へ導いた存在。


「……あれが、お前を監視する役だったのか」




 カノンは深く頷いた。


「そう。森の主の使い……。けれど、なぜか役目を放棄し、あなた様を連れて戻ったのです」




 アテルイは考える。森の主――それは誰を指すのか。まさか、あの卑劣な老木ではあるまい。だが胸の奥で、あの嘲笑の声がまだ響いている気がしてならなかった。




「……森の主は、俺がお前を解放したことをどう見るだろうな。どちらにせよ、ここに長居しても良いことはなさそうだ。それに……こういう場所は好かん」




「北へ向かえば、主の領域を離れられます。そこなら、追っ手も届かない……気がします」




 アテルイはしばし黙した。自分には剣がある。生き延びる力は十分にあると思っていた。だが言葉は通じず、土地の理も知らない。異国で独り生きるには、あまりに無力だった。




 一方のカノンもまた、知恵はあれど力は乏しい。彼女の脚は柔らかく、戦うための爪や牙は備わっていない。互いに欠けているものを補い合う――それが生き延びる唯一の道である。




「……ならば、共に行こう。お前には教えてほしいことがある。道中なら、俺は剣で守れる」




 カノンは戸惑いを浮かべた。


「ですが、私はこの姿……。人前には出られません」


「かまわん。先ほど、人間に似たやつに騙されたばかりだ。お前のほうが、まだましだ」




 その言葉にカノンは驚き、しばし沈黙し、やがて静かに頷いた。




 こうして二人の旅が始まった。数週間、森を抜けるために北へ北へと進む。村や町を避け、人の目を忍びながら。旅は容易ではない。森は深く、足元はぬかるみ、冷気は骨まで染みる。人里に降りればよいのだが、アテルイは言葉を知らず、カノンは姿を隠さねばならない。




 それでも二人は進み続け、やがて森の外れに一時の拠点を作った。奇妙なことに、森の主の追っ手は現れなかった。




 そこで、共生の日々が始まる。




 カノンは聡明だった。糸で模様を描き、そこに意味を込め、アテルイに言葉を教える。丸は「日」、波は「水」、交差する線は「森」。彼女の糸はただ織物を作るだけではなく、文字や記号を紡ぐ役割を果たした。




 アテルイは狩りに出て獣を仕留め、焚火で肉を焼き、血をすすぎ、糧を得る。カノンはその肉を保存する袋を編み、獣皮から衣を縫い、生活を支えた。八本の脚は戦いには向かないが、細やかな作業には最適であった。




 ぎこちなかった二人の暮らしは、やがて小さな笑みを生む。狩りから戻ったアテルイが拙いジパング語で「カノン」と呼ぶと、彼女はくすりと笑い、その発音を優しく直してくれた。それは束の間の平穏であり、二人の孤独を癒やす灯であった。




 しかしその平穏の裏で、カノンの胸には絶えず不安があった。


 ――この姿で外に出れば、人は私を受け入れないだろう。


 けれど、アテルイと共に歩む時間は、その恐怖をほんの少しだけ和らげていた。




 一月が過ぎ、季節が巡る。森に雪が降り積もり、やがて溶け、川の流れは勢いを増した。春の匂いを含んだ風が頬を撫でる頃、二人は北の果てへと到達する。




 だがその先には海が広がっていた。果てしない水の壁が彼らの前に立ちはだかり、歩みを嘲笑うかのように青黒く揺れている。




 アテルイは拳を握り、歯を食いしばった。


「ここから北へ渡るには……船が必要だ」




 カノンは沈痛な面持ちで頷く。


「けれど船は、人の世のもの。森を出ねば手に入りません」




 胸にかすかな絶望が広がる。だが、背に腹はかえられない。平穏な日々は終わりを告げ、再び試練の刻が近づいていた。




 アテルイは剣の柄を握りしめ、冷たい潮風に向かって歩みを進める。その背に、カノンの糸が月光を受けて淡く光った。




 ――異国に流された二人の旅は、まだ始まったばかりだった。


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