落ち人、森に墜つ
深い、深い森だった。
日差しは苔の毛布に吸われ、鳥の声も届かない。風すら眠っているのかと思うほどに、世界は静かだった。
男がひとり、落ち葉の上にうずくまっている。
名はアテルイ――神界を追われ、異郷に投げ落とされた“落ち人”。
肺の奥に残る灼けるような痛み。胸骨が軋む感触。
息を吸うたび、別の誰かの記憶がきしむように擦れる――裁きの間、白い柱、冷たい視線、告げられた追放。
思考が、まだ地上の重力に慣れていない。
顔を上げると、目の前に一本の巨木がそびえていた。
幹は黒い皮で割れ、古い傷のような溝が幾筋も走っている。枝は四方に張り出し、地の底まで届くような根が、土の下で硬く絡み合っている。
槐――えんじゅの老木だ。
その木から、声がした。
「目を覚ましたか、旅の子よ」
湿りを帯びた、低い声。地面からわき上がった靄が言葉になったみたいだった。
アテルイは反射的に身構えたが、声には剣気がなかった。むしろ、どこか親切そうですらある。
「……俺に、話しかけているのか?」
「そうだとも。ここは人の道の外れ、森の底だ。おまえは独りだろう。迷う者には道を、傷つく者には休み場を――それが古木の務めだ」
老木は、あたかも長老のように穏やかに語った。
アテルイは胸の痛みを押さえながら、礼儀のつもりで軽く頭を垂れる。
「助かる。俺は――」
「知っているよ、落ち人おちびと」
声がかすかに笑う。
その響きに、砂粒ほどの違和感が混じったが、アテルイは気のせいだと流した。
「この地は初めてだろう。重たい空気に驚いたか。この土地は、よそ者には冷たい。まずは背を伸ばし、深く息を吸うがいい。……そう、そうだ。大丈夫、私は害など――」
老木はゆっくり、ゆっくりと語りかける。
アテルイは礼を言い、周囲を見渡そうと、一歩、背中を向けた。
その瞬間だった。
土が鳴る。
大地の奥から、硬いものが飛び出した。
視界の端で、黒い影が走る。
――ズドン。
根だ。
槐の根が、槍のように伸び、アテルイの胴を、背から胸へと貫いていた。
「――っ!」
声にならない声が喉に詰まり、口から温いものが溢れた。
胸の中心が熱い。熱いのに、指先は氷みたいに冷たい。
アテルイは膝をつき、目を見開いた。
「……なに……を……」
震える問いは、血と一緒に零れた。
老木が、笑った。
今度ははっきりと、乾いた嘲笑だった。
「おや、驚いた顔だ。親切にしてほしいのかい、落ち人?」
根がさらに締め付ける。肋骨が軋み、肺から空気が押し出される。
アテルイの背中で、別の根がふたまたに割れ、心臓の近くを貫いた。
「この地では、落ち人はいつも空から降る。天の裁きか、神々の戯れか、理由はどうでもよい。おまえたちは“よく熟れている”。生気が濃い。喰えば、我らは長く生き、より深く根を張れる」
声には慈悲のかけらもなかった。
先ほどまでの“親切”は、迷い鳥を手に取らせるための餌だったのだ。
「生き物は皆、他の命を食む。私も同じ。森の掟は古い。おまえもその一部になるだけだ――」
老木は懇々と語り続けたが、ふと気づく。
言葉の途中から、返事がない。
「おや?」
見れば、アテルイの首は力なく垂れ、瞳の光は消えていた。
口元から流れた血は、根の上で黒く乾きはじめている。
「もう、死んだのか。つまらない」
老木は肩代わりの枝を揺らし、あざけるように根を引き抜いた。
ずぶ、と湿った音。
貫いていた根は赤黒く染まり、滴る血を吸い上げるみたいに、じわりと色を変える。
「せめて最後まで喚いてくれれば愉しめたものを。……まあ良い。いただくものはいただいた」
老木は絡め取っていた身体を、ぶら下げたまましばし眺め、それから退屈そうに放り投げた。
アテルイの躯は弧を描き、湿った地面に叩きつけられる。
秋の落ち葉が舞い、音は森に呑まれた。
静寂。
老木は満足げに、深く息をつくように枝を鳴らした。
――だから、気づかなかった。
落ち葉の山の中で、死肉が、ごくりと嚥下するみたいに、ひとつ痙攣したことを。
引きちぎられた肉の断面が、細い糸で縫い合わされるみたいに、密やかに閉じていくことを。
折れた肋骨が擦れ合い、音もなく元の位置に戻っていくことを。
血の中から、微かな声が漏れた。
「……おい」
老木の根が、びくりと震える。
「くそったれめ。……いてぇじゃないか」
アテルイが、立っていた。
その顔は蒼白で、唇はなお血に濡れている。だが、目だけは鋼の光を帯びていた。
胸に空いたはずの穴は、赤黒い筋を残して塞がり、皮膚の下で神人の血がうねっていた。
彼はゆっくりと、地面に落ちていた一本の剣に手を伸ばす。
柄は古び、刃は土と血にまみれている。
それでも握った瞬間、剣は手に馴染み、冷たい意志が腕から肩、背骨へと駆け上がった。
「馬鹿な……」
老木が呻く。
根がざわめき、地面の下で何本もが身構える。
アテルイは一歩、前に出た。音が消えた。
次の瞬間、彼の姿は老木の眼前にあった。
アテルイの体はほとんど残像になっていた。
剣がひと筋、森の黒を横薙ぎに走る。
「……ストン」
何かが落ちるような、乾いた響き。
槐の幹に白い線が浮かび、そこから深い裂け目が走った。
老木は叫ぼうとしたが、声は樹液の泡に呑まれた。
巨木が二つに割れ、黒い液が滝のように溢れ、根が痙攣しながら地中へ逃げる。
枝葉がばらばらと落ち、森の床一面を覆い尽くした。
静寂が戻る。
アテルイは剣先を下げ、肩で短く息をした。
まだ胸の内側は焼けるように痛む。それでも、彼は口の端で笑った。
「……くそっ転移してすぐにこれとは先が重いな....」
足元で、割れた老木の断面が最後の泡を吐いた。
アテルイはその泡に目を落とし、わずかに顎を引く。
「ここは、俺を拒むのか。――いいだろう」
森の奥から、別の気配がこちらを窺っている。
雪と海霧の土地の、冷たい息遣い。
アテルイは剣を背に回し、ゆっくりと森の暗がりに踏み出した。
落ち人の行く手に、まだ名もない影が幾つも揺れている。
少年の背は細い。それでも、折れない。
こうして、神人の物語は、この地に刻まれはじめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます