第2話
片田舎の因習村。
古い言い伝えだけが取り残された、今では地図からも消えかけた集落――その片隅。
朽ちかけた社の屋根。そこに生える湿った苔の臭いが満ちる空間。
亡くなったばあちゃんの遺品整理に訪れた俺は今まさにその因習に飲み込まれようとしていた。
「ちょ、ま!」
30年の人生でおおよそ味わったことのない"不可視の力にのみこまれる"感覚。
今この瞬間に崩れ落ちてもおかしくない社に向かって、俺の体はゆっくりと、だが確実に引き寄せられていた。
「まって、まってくれや!んな話聞いてへん!ノーカンやろ!」
慌てて手近の細い木にしがみつきながら、社の屋根の上、鎮座する“狐”に必死に訴える。
もともとどんな毛色だったのか、もうわからない。
毛並みはボサボサで、ところどころ禿げ上がってすらいる。
けれど、その狐こそが――この異常事態の原因。まごうことなき、神様だ。
「何を言う、わらわはずっと待っておったのじゃ。」
がさつき、しわがれた声が響く。
力尽きる寸前のように弱々しい声色ながら、驚くほど情念がこもっている。
「封じられ千年。ただの一度も文句を言わず祟らず攫わず。ただただ、わらわのための巫女がよこされる、その約束が守られるのをな。」
声の主は社に負けず劣らず色褪せた様子の狐。
しかし、その目だけはギラギラと何か得体のしれない喜びに輝いている。
「なんやて!?巫女ぉ!?どこに目ぇ付けとんねん!お前の目の前におんのは360度どこから見てもおっさんやろ!!」
「そんなものは関係ないのじゃ、どうとでもなる。約束は約束。宵森の者がそれを果たしに来たのに逃してしまっては、わらわも死んでも死に切れぬのよ。」
にべもなく言い切られる。引き寄せられる圧力は一層高まり、しがみついている細い木ももう限界だ。
恐怖と混乱にまかれながらも、なんとか叫んだ。
「それに、もうこの村には誰もおらへん!ここで神様やったって、意味もうないで!」
狐はその獣面からもわかるように鼻を鳴らした。
「ふん。そんなことはわかっておる。宵森が、わらわの眷属として生きる。それが約定。この世界でそれが難しいなら渡るまでじゃ。」
ばきり。
絶望的な音を立てて、木が折れた。
体がふわりと宙に浮く。慌てて何かをつかもうとするが、もう何もない。
――やば。
「うそやろ……!」
重力の向きが変わったように、社へと吸い寄せられる。
あの狐が笑っていた。
牙をのぞかせ、ぞっとするほど満ち足りた顔で。
◆◆◆◆
目が覚めたのは例の朽ちかけた社に負けず劣らずの廃墟。
かび臭いその空間で、俺はスマホ片手に、冷や汗と震えを止められずにいた。
「おおぉ?ああぁ!?」
俺の口からは言葉にならない、場違いなほど可憐な声があふれる。
手に持ったスマホ――インカメラになったその画面には見覚えのない少女が大きな紅い瞳を見開いて映っている。
めっちゃくちゃ美少女……!――いや、そうじゃない!なんだこれ?!
薄暗い室内でも黒く艶のある長い髪――光の角度で黒は色合いを変え、わずかに青く見える。
画面に映る恐ろしいまでに整った容貌が俺の感情に合わせて歪む。
どう見ても十代半ば、下手したら中学生くらいじゃないか。
まとまらない頭のまま自分の頬に触れてみる。画面の中の美少女もカメラ内で同じ動きをしていた。
そして何より――頭の上に燦然と輝く狐耳!ちらちら視界をよぎる謎の尻尾!
『そんなものは関係ないのじゃどうとでもなる』
『宵森が、わらわの眷属として生きる。それが約定。』
狐の声が脳裏によみがえる。
「どうとでもした結果がこれかいな!?」
Q:巫女の眷属が欲しいのにおっさんしかいない。どうする?
A:狐娘美少女にしてしまえばいい。
「なんやそれぇ!!」
あんまりな事態に頭を抱える。思わず手を引っ込めそうになる程のなめらかさだが、混乱を沈めてはくれなかった。
じゃあなんだ?あの狐は本当に神――もしくはそれに準ずる何かで?俺の先祖はそれと何かを約束してて?それをずっと反故にしてて?俺が捕まって、千年越しに約束の履行を求められてる!?
『いいかい歩。決してあの祠に近づいてはならんぞ。絶対じゃ』
ピシャリと告げた、ばあちゃんの真顔がよみがえる。
「理由を教えておいてくれよ、ばあちゃああああん!!」
ゴロンゴロンと恥も外聞もなく廃屋の床を転がる。
――は!体が女の子になっとるってことは!!
ばっと勢いよく胸に手を当てる。
「ある!?」
決して大きくはないが確かに筋肉とは違うやわらかな感触が手に伝わる。
やたらダボつく服を慌ててめくる。とうにズボンはずり落ちて床に転がっていた。
「ない!」
――あるはずのものが、ない。
30年を共にした相棒が、きれいさっぱり消えていた。
「おい神さん!そこは不可侵領域やろぉぉ!?」
自分の体の変化を改めて実感し、急速に現実が追いついてくる。
音を立てて頭から血の気が引き、喉が渇きを訴え始めていた。どくどくとなる心臓の音がまるで耳の横でなっているようだ。
思わず視界の端をよぎった尻尾を手繰り寄せる。少しホコリにまみれているが顔を埋め無心でなで続けた。
「落ち着けっ!おちつけ!‥‥‥‥ふぅ」
いや、意外とこの尻尾おちつくなおい!
急速に鼓動が平静になり、血の気が戻ってくる。
「さ、さすが神の眷属の尻尾やな……。」
問題はそれが俺の尻尾であるという点だが。
神の眷属、そう口にした瞬間ぱっと頭に天啓が下りて来た。
困ったときの神頼み。である。
「か、神さん!隠れてないで出てきてくれへんか!ウチの先祖が約束反故にしたんは謝るけど、ホンマこれはシャレにならんて!」
周りを見渡しながら声を掛ける。朽ちたテーブル、すすにまみれた暖炉らしきもの。
返事はなく、淀んだ臭いと静寂が返ってくるばかりだ。
聞こえているのに無視しているのか、そもそも存在すらしていないのか、俺に見分けるすべはない。
ただただ一人この場に放り出されているという結果が残っただけだ。
「勘弁してぇな……」
一人肩を落とす。わけのわからない状況に加えずっと違和感がぬぐえない体。
放り出しておきながら反応のない神様。混乱する頭。
手に持ったスマホの電源はいつの間にか切れていた。
真っ黒の液晶に情けない顔をした美少女が映っている。
その黒い液晶は、まるでもう現代との関係が切れてしまったような感覚を俺につきつけていた。
……完全に打つ手なし。どん底である。
「はあぁぁ…………。」
うなだれ、深く、吐ける限り深くため息をつく。
「っよし!」
パンっと頬を両手で張る。へその下に力を入れて、ぐっと立ち上がる。
手のひらから驚きの柔らかさが返ってきたが、頬に感じる痛みはくじけそうになる心に喝を入れてくれた。
「ここがどん底なら、あとは這い上がるだけやな。こんなわけのわからん、天変地異に負けてたまるかい」
自分に言い聞かせるようにつぶやく。
理不尽に巻き込まれてそのままつぶれる。それは一番ダサく、俺の信条に反する。
ふん、と再度力を入れなおし。転がったままのズボンを再度履く。
一番きつくしても余裕で余るウエストにビビりながら、無理やり縛るようにして固定した。
スマホをポケットにねじ込み宣言する。
「負けたらんで、アホ狐が。何とかして一発ぶんなぐったるからな!」
そうと決まればいつまでもこんなかび臭い廃墟にいられない。
廃屋の唯一の出口であるドアに向かう。
「ふんっ!」
勢いよく崩れかけたドアを押し開こうとするとあっけなく倒れて土ぼこりを上げる。
目の前に広がるのは、見たことのない薄暗い路地裏。
廃屋にわずかに日が差し込み、湿った風が通り抜けていった。
「ぎぃーー、ぎぎぎぎ……」
鳴き声のような、断末魔のような奇声を上げながら目の前を6本脚の犬?のような生物が横切っていく。
『この世界でそれが難しいなら渡るまでじゃ。』
再度、忌まわしき狐の声が頭によぎる。
渡る――意識の底でずっと目をそらしていた単語が現実となって目の前に現れていた。
目の前に広がる、おおよそ日本建築とはかけ離れた街並みと見たことない生物。
空気もにおいも日本とはまるで違う。その事実に鼓動が再び早さを増していく。
くらり、と意識が遠のく。俺はとっさに尻尾を抱きかかえていた。
「――あぁ、渡るって世界をかいな。いやぁ、さすが神様。スケールがおっきいわぁ」
奮い立たせた気力がしおしおとなえていく。
途方に暮れて空を見上げる。澄み渡った青空は元の世界と同じように見えた。
落ちつけ、世界が変わっても空の青さは一緒――いや、だめだ太陽が二つある。しかも片っぽ真っ黒だわ。
ここ、地球じゃない。
どうしようもない事実に思わず膝をつく。震える体を止められず、呆然とするしかなかった。
今なら少しくらい泣いても、許されるんじゃないか。だって、体はもう女の子なんだから。
震える手で尻尾を撫でながら途方に暮れる。
「はぁ……どないしよ」
再度深く、先ほどより深くため息をつきながら、落ち着くまで尻尾をなで続けることにするのだった。
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