第20話 気まずい



…気まずい。

とんでもなく気まずい。


リムジンの車内は広々として快適なはずなのに、今はその広さが拷問のように感じられる。

横に座るアイリス嬢は背筋をまっすぐ伸ばし、優雅に組んだ膝を崩すことなく、外の夕暮れを眺めていた。


対して俺はといえば――。


(あー……やべぇ、何喋ればいいんだ俺……)


背中は冷や汗でびっしょり。

革張りのソファに沈み込む身体が、逆に抜け出せない罠のように感じる。


すると――。


(おい相棒、なんか喋れよ。沈黙が一番ダメだって人間の本能が言ってるぞ?)


頭の奥で、テンペストが愉快そうに囁いてきた。

やかましい。こっちは今、それどころじゃねぇんだ。


(……黙っとけ。今は俺に任せろ)

(ふーん? でもよ、一度ヤッた相手なんだからもっと気楽に行けよ)


――ッ!?


鼓膜が破裂しそうになった。

「ヤッた」だと!?


おいこのクソ竜、なにサラッと爆弾投下してやがる!?

モラルもクソもねぇのか!?


(ちょ、ちょっと待て! 今なんて言った!?)

(聞こえただろ? 一度ヤッた。もう関係性は完成してる。だから気楽に――)

(ヤッたって何だよヤッたって!!)


声にならない悲鳴を必死に押し殺す。

いやいやいや、もし本当に“そういうこと”があったなら俺はどうなる?

……俺、記憶がねぇ間に、間接的に童貞を卒業したってことになるのか……?


胸がドクドク鳴る。

喉がカラカラに乾く。


そっと横目でアイリスを盗み見る。


金糸の髪はシャンデリアの光を浴びて煌めき、横顔は絵画のように整っている。

碧眼は窓の外を見つめていて、その瞳の透明感に思わず飲み込まれそうになる。

……くそ、やっぱ綺麗すぎる。


俺が最初に決闘を申し込もうと思った理由も、正直なところ「一目惚れ」だった。

学園の廊下ですれ違った瞬間、目を奪われ、心臓を撃ち抜かれた。

そして――偶然目撃してしまったあの“黒い紐下着”。


そうだ、あの黒パンティー事件がすべての始まりだった。

俺の中の男センサーが、「なんとしてもモノにしろ」と警鐘を鳴らしてしまったのだ。

それであの無謀な決闘に踏み切った。


……つまり、最初から下心丸出しだったわけで。

あぁ、なんというか、その……申し訳ない。


(もしテンペストの言うことが本当なら……俺は記憶のないまま童貞を卒業してるってことに……?)


いや、でもそれって本当に卒業って言っていいのか?

仮にも肉体は俺のものだ。

だが、操作してたのはテンペスト。

これは……「代行卒業」? いやいやいや、そんなカテゴリは存在しねぇ!


頭の中で自問自答がぐるぐる回り、気づけば下品な妄想ばかりが膨れ上がっていく。

汗が首筋を伝い、胸の奥で心臓が破裂しそうに暴れていた。


――そのとき。


「……そんなに緊張しなくても」


透き通る声が車内に響いた。

俺は心臓が飛び跳ねるのを感じながら、反射的に彼女の方を向いた。


アイリス嬢は微笑みを浮かべ――いや、微笑みとも違う、穏やかな表情で俺を見ていた。


「今日はあなたを攻撃したりはしないわ」


「………………っ」


一瞬、頭の中が真っ白になった。


な、なんだ今の言葉!?

まるで俺が普段から攻撃される前提みたいじゃねぇか!


でも、確かに決闘とか取り巻きとかで、常に刺々しい空気に包まれてた。(いやほぼ記憶ないけど)

ヤンキーどもに絡まれた時は、正直言って“やばい奴なんだろうな”とは勝手に想像してしまってた。

だからこそ、こんなふうに穏やかな声をかけられると、逆にどう反応していいかわからなくなる。


(おい相棒、ほら見ろ。“ヤッた”仲だからこそ安心してんだよ)

(うるせぇぇぇぇぇぇぇ!!!)


俺は心の中で全力のツッコミを入れながら、口から出る言葉を必死で探していた。


……この令嬢と、今こうしてリムジンで並んで座っている。

それだけで現実感が薄れ、妄想と現実の境界がぐちゃぐちゃに溶け合っていく。


俺はただひとつ――この気まずさをどうにか誤魔化そうと、乾いた笑みを浮かべたのだった。

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