第8話 竜の仮面



胸の奥で脈打つ何かが、俺の意識を内側から突き破ろうとしていた。

熱い。とにかく熱い。血が沸騰し、骨が震え、内臓が焼けただれるような感覚。


「……や、めろ……まだ……」


必死に抗うが、声は掠れて届かない。

従者の一人が鉄パイプを振り上げるのが見えた。

これが最後の一撃だろう。俺の意識も、肉体も、ここで潰える。


——心臓が暴れていた。


いや、心臓だけじゃない。

全身の血管が逆流するように熱を帯び、骨髄を焼くような灼熱が背骨を駆け上がる。

内臓の奥で何かが蠢き、皮膚の下を別の生き物が這い回っているような感覚に襲われる。


「……やめろ……やめろ、出てくるな……!」


意識の奥底で叫ぶ。だが、声はもう自分のものですらないように掠れていた。


倉庫に響いたのは鉄パイプの風切り音。

トドメの一撃が振り下ろされる瞬間、俺の視界は一気に赤黒に染まった。


——ズゥン


低い鼓動が全身を貫き、瞳孔が裂ける。

目の奥が焼けつく痛みを超え、赤と黒の濁流が視界を支配する。

そして口内で歯茎が軋み、犬歯がじわりと伸びた。

鋭く尖った牙――竜の因子が、ついに表に現れたのだ。


「……ったく、だらしねえな」


低く、獰猛で、冷ややかな声。

それは確かに俺の口から発せられたのに、俺自身の声ではなかった。

まるで背骨の奥から別の人格が這い出してきたかのようだった。


鎖がきしむ。

ギチ、ギチ、と金属が悲鳴を上げ――。


バキィンッ!


俺を柱に繋いでいた鉄鎖が、粉々に砕け散った。


「……なっ!?」

「嘘だろ、あの鎖を!?」


従者たちが一斉にざわめき、後ずさる。

無理もない。特殊合金で作られた拘束具を、ただ力任せに引き千切ったのだから。


俺はゆらりと立ち上がった。

首をぐるりと鳴らし、肩を回す。

赤黒い目が薄暗い倉庫の中でぎらりと光を放ち、周囲を照らした。


「庶民が……貴族様に逆らっていいと思ってんのか!?」

「囲め! ぶっ潰せ!」


従者たちが怒号を上げ、一斉に飛びかかってきた。

鉄パイプ、チェーン、ナイフ。

それぞれが武器を手に、獣のように襲い掛かる。


だが、俺の体はすでに別の理で動いていた。


——見える。


相手が振りかぶる前の筋肉の動き。

呼吸の乱れ。

刃先がどの軌道を描くか、すべてが先に像を結んでいた。


「遅ぇな」


その言葉が口を突いて出たとき、俺はもう俺じゃなかった。

声の調子が違う。低く、獰猛で、それでいて妙に愉快そうな響き。

自分で喋っているはずなのに、背骨の奥に“もうひとつの俺”がいて、そいつに口を勝手に動かされているような奇妙な感覚だった。


飛び込んできた鉄パイプの一撃を、俺は軽く首を傾けて避けた。

ほんの数センチの差で頬を掠める。

風切り音だけが耳を撫で、間抜けな音を立てて空を切った。


「ほいっと」


軽い掛け声とともに、自然と体が動いた。

振り下ろした従者の胸に俺の踵がめり込む。

骨が鈍くきしむ感触が足裏に伝わり、男は悲鳴すら上げる間もなく、背後の壁へと吹き飛ばされた。

鉄骨に激突した瞬間、錆びた梁が崩れ、乾いた破裂音と共に粉塵が舞う。


……おかしい。俺は蹴るつもりなんてなかった。

なのに、気づけば体が勝手に“そう動いていた”。


だが、その違和感すらも――楽しくて仕方がない。

胸の奥でうねる熱が、全ての痛みや恐怖をかき消していく。


「な、なんだこいつ……!」

「さっきまでボロ雑巾みたいだったのに……!」


従者たちのざわめきが広がる。

だが俺は笑っていた。笑い声が止まらない。


「ははっ……いいじゃねぇか! もっと来いよ! 俺を退屈させんな!」


その声は、楽しげに響く。

まるで喧嘩を遊びだと信じて疑わないガキのような調子だった。


「囲め! 一気にやれ!」


リーダー格の大男が怒鳴ると、十数人の従者たちが同時に動いた。

鉄パイプ、チェーン、ナイフ。

それぞれが武器を手に、獣の群れのように襲い掛かる。


だが、俺の視界には彼らの動きがすべて“先”に見えていた。


振りかぶる瞬間の肩の動き。

刃を握る指先の震え。

踏み込む足の角度。

どこを狙って、どの軌道を描くか――全てが像となって先に結んでいた。


「見え見えだなぁ!」


一人目がチェーンを振り下ろす。

俺はその鎖を素手で掴んだ。

掌に食い込む冷たい鉄。普通なら皮膚が裂けるはずなのに、逆だ。鎖のほうが悲鳴を上げる。


ギチ、ギチ、と軋み……やがて粉々に砕け散った。

従者の目が驚愕に見開かれる。

その腹に肘を突き立てると、鈍い衝撃が響き、男は床に沈んだ。


「お次は誰だ?」


二人目がナイフを突き出してきた。

俺は軽く片手を上げ、指先で刃を摘む。

キィンと甲高い音が響く。


「おー、ピカピカだな。手入れは行き届いてるじゃねえか?」


冗談めかした声とともに、ほんの少し力を込めると――ポキリ。

鋼鉄の刃が、乾いた音を立てて折れた。


「なっ、馬鹿な……!」

動揺した顔面に、俺の拳がめり込む。

そのまま壁へと叩きつけられ、白目を剥いて崩れ落ちた。


三人目が背後から飛びかかってきた。

気配を感じる前に、体が勝手に回り込む。

背後へ振り抜いた肘が顎を砕き、男の頭はがくんと跳ねた。

涎と血が飛び散り、床に倒れ伏す。


「ははは! もっと! もっと暴れさせろ!」


倉庫内は悲鳴と衝撃音で満ちていた。

鉄パイプが折れ、木箱が砕け、埃が舞い上がる。

その中心で、俺は笑いながら暴れ回っていた。


「や、やべぇ……! なんだコイツは……!」

「庶民じゃねぇ! 化け物だ……!」


従者たちの顔から血の気が引いていく。

恐怖を隠せず後ずさりする者。

武器を取り落とす者。

声を振り絞って叫ぶ者。


その目に映るのは、ただの学生じゃない。

鎖を砕き、刃を折り、笑いながら暴れる怪物――それが今の俺だった。


「庶民? 化け物? 好きに呼べよ」


俺は肩で息をしながら、口角を吊り上げた。

赤黒い瞳がぎらりと光を放つ。


「でもな――俺は今、最高に気分がいいんだ」


その言葉に、倉庫の空気が凍り付いた。

従者たちは本能的に悟った。

これはただの暴力ではない。

俺の中で“別の何か”が目を覚まし、肉体を操っている。


竜の因子。

古代から連なる禁忌が、この瞬間に現代へと顔を覗かせたのだ。


笑い声が響く。

俺のもののはずなのに、まるで他人のように陽気で獰猛な声。


「おいおい、まだ終わりか? こんなんじゃ退屈で眠くなっちまうぜ!」


従者たちは怯えながらも、なお武器を構える。

だがその手は震えていた。


俺はゆっくりと歩を進める。

足音が鉄板の床に響き、ひとつひとつが心臓を締め付けるような圧迫を生んでいた。


その姿は――もはや人のそれではなかった。

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