陰キャで『視える』俺は、今日も強気ギャルに振り回される ~不条理ホラーの世界で足掻く~

速水静香

第一章 :廃病院

第一話:予兆

 午後の授業を待つ、気の抜けた喧騒が教室に満ちていた。

 今は最後の休み時間。午後の気だるい時間の最後の休息。窓から差し込む眠気を誘う光が、机の上の埃をきらきらと照らしている。


 俺はスマートフォンの冷たい画面を指でなぞりながら、意識的に外界との接続を断っていた。これは、もうずいぶんと長いこと続けている、俺なりの習慣だ。画面に表示される、どうでもいい動画や他人の作為的な日常を眺めている間だけは、余計なものが『視え』なくなる。正確に言えば、それが視えなくなるわけじゃない。視界の端で黒いシミのようなものがうごめいたり、誰もいないはずの席に一瞬だけ誰かの形をした靄がかかったりするのは相変わらずだ。ただ、スマートフォンの発光する四角いフレームに意識を集中させている間は、それらを『認識』せずに済む。脳が勝手に、これはノイズだと判断してくれるのだ。この行為は、俺がかろうじて正気と平穏を維持するための、唯一にして最善の手段だった。


 物心ついた頃から、俺には普通の人には視えないはずのものが視えた。


 好きで手に入れたわけでもない、ただの『体質』。そして、この体質は俺の意思とは全く関係なく、面倒な事柄や、時には明確な厄災を引き寄せる。これまでの人生で、もう数えきれないくらい命の危険を感じる場面に遭遇してきた。そのおかげで、危険な場所や存在が放つ特有の気配を肌で感じ取れるようになった。近寄ってはいけない場所。関わってはいけない人間。してはいけない行動。それらを敏感に察知し、徹底的に避けてやり過ごす。それが俺の行動指針だ。祓う力も戦う力もない。俺にできるのは、ただひたすらに『逃げる』ことと『関わらない』ことだけ。


 だから、俺は人と深く関わることを避けている。

 教室ではいつも一人。周囲からは、物静かで何を考えているか分からない生徒だと思われているだろう。

 それでいい。それがいい。


「だから大丈夫だって! ただの廃病院だろ?」


 不意に、甲高くてよく通る声が、俺が築いた見えない壁をいとも簡単に突き破ってきた。

 声の主は、北条スズ。

 明るいブラウンに染められたウェーブのかかったロングヘア。校則の範囲で最大限に着崩された制服。手首でじゃらじゃらと鳴るブレスレット。いわゆる、彼女はギャルというものだった。

 彼女は常にクラスの中心で、いつも誰かと笑っている、太陽みたいな女。俺とは対極の存在。彼女は数人の女子生徒に囲まれて、何やら熱心に語りかけていた。その女子生徒たちは、明らかに怯えた表情をしている。


「でも……あそこは本当に出るって……」

「入った人はみんな呪われるって聞きました……」


 友人たちの弱々しい声に、北条はあっけらかんと笑い飛ばした。


「はぁ? 呪い? そんなの気合が足りないからだよ! 大体、ユーレイとか信じてるの? マジで?」

「で、でも……」

「それにほら、相談してきたのはそっちじゃん。今度やる肝試しで使うから、下見に付き合ってほしいって。あたしは別にいいって言ったんだよ?」


 どうやら、友人たちが北条に肝試しの下見を頼んだらしい。そして、その場所に怖気づいている、という構図か。よくある話だ。俺は再びスマートフォンの画面に視線を落とし、意識を遮断しようと試みた。

 だが、次に聞こえてきた単語に、俺の指はぴたりと動きを止めた。


「だって、場所が『第一北山中央病院』じゃないですか……。あそこだけはヤバいって……」


 その名前を聞いた瞬間、首筋がぞわぞわするような不快な感覚が走った。

 全身の肌が粟立った。


 第一北山中央病院。


 地元では最も有名な心霊スポット。そんな生易しいものではない。あそこは、本物だ。俺の危険察知能力が、これまで経験した中でも最大級の警報をけたたましく鳴らしていた。あの丘の上にある廃墟は、ただの古い建物じゃない。悪意そのものが形になったような、濃密な気配を常に撒き散らしている。いわば『禁足地』。面白半分で足を踏み入れていい場所では、断じてない。


「だから、それがどうしたんだよ。ただのボロい建物だろ」

「違いますよ! あそこに入ったまま、帰ってこなかった人もいるって……」

「それ、ただの都市伝説だって。警察沙汰にもなってないじゃん。ていうか、そんなにビビってるならやめれば?」


 北条の言葉は正論だ。オカルトを信じない人間からすれば、当然の反応だろう。だが、俺には分かる。彼女たちの怯えは、根拠のない噂からくるものではない。あの場所が本能的に発している『拒絶』の気配を、無意識に感じ取っているからだ。

 頼むから、この話はここでお開きにしてくれ。俺は心の中で誰にともなく祈った。面倒事はごめんだ。特に、ああいう場所が絡む案件は、近づくだけで寿命が縮む。


 しかし、俺のささやかな願いは、太陽みたいな女の快活な声によって無慈悲に打ち砕かれた。


「あー、もう! 分かった、分かった! うじうじしてるのが一番ダサいんだよ! あんたたちがそんなに怖いって言うなら、あたしが一人で行って、何もないってこと、ちゃーんと証明してきてやるよ!」


 仁王立ちで胸を叩きながらそう宣言した北条に、取り巻きの女子たちが「ええっ!」「本当!?」と色めき立つ。


「マジマジ! 今日の放課後、この後すぐ行って動画でも撮ってきてやるから! それ見れば安心するでしょ!」


 ああ、終わった。


 俺はゆっくりとスマートフォンの電源を落とした。画面が暗くなり、そこに映る無表情な自分の顔と目が合った。


 あの女、本気で行く気だ。

 馬鹿だ。あまりにも無知無謀で、救いようがない。あの場所がどれほどの悪意に満ちているか、何も知らないまま自ら死地へと歩みを進めようとしている。


 放っておけばいい。俺には関係ない。自業自得だ。いつもそうしてきたじゃないか。

 俺の平穏を脅かすものには関わらない。それが俺のルールだ。


 頭ではそう理解しているのに、腹の底に冷たいものが溜まっていくような不快感が消えない。

 このまま見過ごせば、彼女は死ぬ。

 事故や病気じゃない。あの場所に巣食う理不尽な悪意によって、ただ一方的に命を奪われる。その光景が、やけに鮮明に想像できてしまう。


 そうなった時、俺の日常はどうなる?


 クラスメイトが一人いなくなる。教室の空席には誰かが花を置くのだろう。周囲は悲しみに暮れる。だが、問題はそこじゃない。俺だけが、彼女が死んだ本当の理由を知っているという、その事実だ。

 その事実を抱え込んだまま、俺は平然と日常を送れるのか?


 見殺し。俺は、救えたはずの命を見殺しにしたのだ。


 無理だ。絶対に無理だ。


 後味が悪いなんて、そんな感傷的な話ではない。もっと利己的で切実な問題といえた。

 俺の思考に『見殺しにした』という罪悪感がこびりつく。

 それは、俺が死守してきた無菌室同然の『平穏』を内側から蝕む、最も厄介な感情だ。日々の思考の片隅に、常にそれが溜まり続ける。

 そんなものは耐えられない。間違いなく、俺の精神衛生が破壊されることだろう。


 ちっ、と小さな舌打ちが漏れた。


 仕方ない。本当に、仕方がない。

 これは善意じゃない。同情でもない。北条がどうなろうと心底どうでもいい。これは、俺が俺自身の平穏を守るための、ただの自己満足であり精神安定剤だ。これから先に発生するであろう『不快感』を、今のうちに最小限のコストで取り除いておくだけの話。そう、それだけにすぎない。

 俺はゆっくりと席を立った。ぎしり、と椅子が床を擦る音が、やけに大きく聞こえた気がした。



 教室中の視線が、突き刺さるように俺に集まるのを感じた。

 普段、教室の隅で空気のように過ごしている俺が、クラスの中心である北条スズたちのグループに自ら近づいていく。それは、このクラスの人間にとって相当に珍しい光景なのだろう。

 北条も俺が近づいてくることに気づいて、少し驚いたような顔をしていた。彼女の前に立つと、シャンプーと何か甘い香水の匂いがふわりと鼻をかすめた。


「え、なに? 鬼龍院じゃん。突然、どうしたの?」


 北条が少し不思議そうに首を傾げる。その後ろで、友人たちも戸惑った表情で俺を見ていた。


 何を言うべきか。


 『あそこは危険だ』と言っても信じるはずがない。『幽霊がいる』なんて言えば、頭がおかしいと思われるだけだ。俺が持っているのは、客観的な証拠など何もない、ただの主観的な『感覚』だけ。オカルトを信じない人間にとって、それは何の説得力も持たない。

 だから、伝えるべき言葉は一つしかなかった。


 余計な装飾も感情も排して。

 ただ、事実だけを。


「死ぬぞ」


 俺の口から放たれた言葉に、その場の空気が一瞬で凍りついた。

 北条も取り巻きの連中も、きょとんとした顔で固まっている。俺が何を言ったのか、すぐには理解できなかったのかもしれない。

 やがて、数秒の沈黙の後。

 最初にその静寂を破ったのは、やはり北条だった。


「……は?」


 彼女は眉をわずかに動かし、俺の顔をまじまじと見つめてきた。


「え、なに? 今、なんて?」

「忠告しただけだ。あの病院には行くな。行けば死ぬ」


 俺は淡々と繰り返した。感情を乗せれば、ただの脅し文句になる。あくまで冷静に、天気予報を伝えるような無機質な声で事実だけを告げる。

 俺の二度目の言葉に、北条は完全に呆気にとられたような顔をしていたが、やがてその表情が、じわじわと面白がるようなものに変わっていくのが分かった。


「ぷっ……あはははは!」


 突然、彼女は腹を抱えて笑い出した。その声につられて、周りにいた連中もくすくすと笑い始める。


「な、なんだよあんた! マジウケるんだけど!」

「……」

「もしかして、あんたもビビってるの? ユーレイとか信じちゃうタイプ?」


 北条は涙を浮かべながら、面白くてたまらないといった様子で俺の肩をバンバンと叩いた。


「いやー、悪い悪い!まさか、地味なあんたがそんなこと言うなんて思わなくてさ!」


 やはり、こうなるか。分かっていたことだ。

 俺の警告は単なる臆病者の戯言として、彼女の中で処理された。これ以上、何を言っても無駄だろう。


「……警告はした」


 俺はそれだけを呟くと、彼女たちに背を向けた。


「ダセェな、鬼龍院!男のくせに肝っ玉小さいのな!あはは!」


 背後からそんな野次が飛んでくるのが聞こえたが、俺は振り返らなかった。

 やるべきことはやった。これで俺の気は済んだ。

 これで彼女が行くのをやめれば、それでよし。もし、これでもまだ行くというのなら、それはもう俺の知ったことじゃない。忠告という『免罪符』は手に入れた。自ら死を選ぶ人間にまで、付き合ってやる義理はない。

 俺は自分の席に戻ると、再び鞄からスマートフォンを取り出した。


 もう、あのグループの方を見ることはなかった。

 やがて、今日最後の授業の始まりを告げるチャイムが鳴るまで、北条の楽しそうな笑い声がずっと教室内に響き渡っていた。

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