見えない声を編む

共創民主の会

第1話 耳マークの向こうにある声

【取材メモ】

2025年2月20日(木) 曇りのち晴れ

取材テーマ:広島県大竹市「手話言語条例」

締切:18時00分(残り5時間)


午前8時30分 大竹市役所 総合案内


 ヒールの響きが冷たい廊下を這う。私は耳マークのシールを手にした職員を追った。シールは直径十センチ。青い耳のマークの下に「聴覚障害者対応」とだけ書かれている。


「ええと、市民課はどこでしたっけ」

 職員の小泉さん(28)はリストを睨み、壁に貼り付ける。泡が入り、シールが少しめくれる。指で押さえ直すその仕草に、どこか「仏壇に新しい位牌を並べる」ような慎みがあった。


取材メモ 9時15分

・耳マーク=「形だけ」か?

・職員「対応マニュアルは整いました」→声が小さい

・高齢者が立ち止まり、マークを見つめる背中→話しかけられず


 エレベーターホールで出会ったのは、杖を突いた男性だった。耳に白い補聴器。彼はマークの前で五分間、まるで聖像を拝むように動かなかった。私は声をかけられなかった。なぜなら、私は「聞こえる」側だから。


午前11時 市役所ロビー


「記者さん、手話をご存じですか」

 突然、後ろから話しかけられた。市障害福祉課の佐藤課長(55)だった。彼は両手をゆっくりと動かした。

「これは『ありがとう』。子どもでも覚えられます」


 私はメモ帳に書いた。

 ――手話は「言語」なのか「コミュニケーション手段」なのか。条例は「言語」と明記した。これがポイントか。


午後1時 大竹駅前商店街「さかなや山田」


 氷の冷気が頬を打った。ガラスケースのイワシが銀色に光る。店主・山田聡さん(52)は黒いエプロンを締め、客と向き合っていた。客は小学生くらいの男の子だ。


 山田さんの指が踊る。

(おつまみは? お父さんの好物は?)

 子どもは戸惑い、母親を見上げる。母親は微笑んだ。

「スルメでお願いします」

 山田さんは親指を立てて「Good!」のサイン。子どもの目が輝いた。


 その時、背後から声がした。

「あんた、また孫の手本になってるね」


 振り返ると、本田義郎会長(74)だった。灰色の作業着に「商店街自治会」の腕章。白い眉毛が特徴的だ。


「記者さん、ようこそ。うちの山田店主は『手話のおじちゃん』で有名なんですよ」

 本田会長は山田さんの肩を叩いた。山田さんは照れくさそうに、手話で何かを伝えた。


「何と言ってるんですか」

「『これで孫と話せる』とな。去年、耳の病気で突然聞こえなくなった孫がいてね。あいつ、毎日ここに来て練習してるんだ」


 私はメモ帳を握りしめた。

取材メモ 13時45分

・「形だけ」と書いた直後の"声"→矛盾

・孫の存在→条例の"肉付け"とは?

・氷の音がジャリジャリ→官庁の冷たさとは違う温度


 本田会長は店の前に置かれた看板を指差した。値段札に小さなシールが貼ってある。手話の「イワシ」「アリガトウ」が描かれている。


「昔は筆談板でしたよ。今は手話。コミュニケーションの形は変わっても、"声"が届く仕組みを作るのが条例の本質なんです」


 会長の言葉は古めかしい響きがあった。語尾の「な」「よ」が、どこか江戸っ子のような軽やかさだ。


午後3時 佐伯地区ろうあ協会大竹支部


 古い公民館の二階。十人ほどの会員が座っていた。壁には「手話言語条例制定から3周年」の垂れ幕が下がる。


 支部長の佐伯ミヨ子さん(68)は、私に厚いファイルを手渡した。

「これが、要望書を出した時の記録です」


 2022年3月15日の日付が入っている。要望書のタイトルは「私たちの"声"を条例に」。ページをめくると、指紋のようなしみがついている。涙か、雨か。


「最初は反対されました。『特別扱いは不公平』って。でも、本田さんがね、商店街で署名を集めてくれたんです」


 私は取材メモを取りながら、壁の時計を見た。15時30分。残り2時間30分。


 会議の途中、山田さんが駆け込んできた。エプロンを外している。彼は手話で何かを訴えかける。佐伯さんが翻訳した。


「『孫が、今日初めて「おじいちゃん」って呼んでくれた』って。手話でですよ」


 部屋中が拍手に包まれた。私のペンが止まった。


取材メモ 15時50分

・"声"とは、音じゃないのかも

・孫の"おじいちゃん"→私のスクープか?

・数字(557自治体)より、この温度を


午後5時 編集部


 私は原稿用紙に向かっていた。タイトルは「手話言語条例3年 "見える声"の物語」。だが、先輩記者の田中さん(45)は首を振った。


「全国557自治体で同様の条例がある。数字を出さなきゃ読者は来ない」

「でも、これは数字じゃないんです。孫の"おじいちゃん"という一語が――」

「甘い! 新聞は事実と数字だ」


 編集長の咳払いが3回目。時計は17時58分。


 私は原稿を見つめた。そこには、高齢者の背中と、銀色のイワシと、手話の指先だけが並んでいる。


夜8時 編集部・校了後


 私はまだ机にいた。原稿は「557自治体」の数字を入れて通った。でも、心のどこかがすり減っている。


 その時、携帯電話が震えた。LINEの通知。山田さんからだった。


【動画付きメッセージ】

 画面に山田さんの顔。彼はゆっくりと手話をしていた。字幕が出る。

「記者さん、今日はありがとう。孫が『また記者のお姉さんに会いたい』って言ってます」


 最後に、山田さんの指が動いた。

(アリガトウ)


 私は携帯を握りしめた。この"声"を、どう活字で再現する? 新聞紙の上では、ただの「感謝」の一言だ。でも、私の中で何かが変わった。


取材メモ 20時15分

・本田会長の言葉「条例は"新しいこと"じゃない。忘れたことを思い出すための糸なんだ」

・私が思い出したのは、聞こえる"義務"からの解放

・明日の朝刊には、数字しか載らない

 でも、私の原稿には"声"が残っている


 窓の外を見る。大竹市の方向に、小さな灯りが見える。耳マークのシールを貼った市役所も、イワシの光る商店街も、公民館の二階も、きっとあの灯りの中にある。


 私は新しいメモ帳を開いた。

「2025年2月21日(金) 晴れ」

 まだ、誰にも聞こえない"声"の物語は続いている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る