第2話 ちち




 輝く記憶を胸に、トェルは何とか息をしていた。


 手足は頭が裂けるほど痛み、吐息さえも時折止まるが、リィフェルの髪がちらちら揺れて、濡れた自分を気遣うようにのぞきこんでくれるたび、砕けた指先までまばゆい光に満たされるようだった。


 光の方だ。


 思うたび、胸がぎゅうっと苦しくなる。息のできぬ痛みに似て、なのにまるで違う甘やかな棘をトェルに刻んだ。


 こぼれるような陽の髪を揺らして駆け戻ってきたアライアが胸を張る。


「人間の赤子ってえのは母ちゃんの乳を飲んで育つらしい。

 リィフェルは乳、出るか」


 真面目に問われたリィフェルは、胸を絞ってみたらしい。

 もぞもぞ動いて首を振った。


「出ない」


「やっぱ月の精霊も無理か。俺も出ねえ。水の精霊にも聞いてみたけど、出ねえってよ」


「乳の精霊は?」


「聞いたことねえなあ」


 うなる二精のうえから、あきれた声が降ってくる。


「ああもう、何やってんの!」


 緑の髪の青年が、笑いをこらえるようにつややかな幹色の頬をふくらませた。


「おお! ノォナお前、乳出るか!」


 笑顔のアライアに目をむいたノォナが叫ぶ。


「出るわけないだろ!」


「ちょっと絞ってみろよ、緑の精霊なんだろ、こう樹液みたいに乳が出るかも──」


「出ないってば!」


 胸を揉もうとするたくましいアライアを、ノォナのほっそりした腕が懸命に引きはがす。


「ちょっとリィフェル! 見てないで、たすけてよ!」


「乳、ほしい」


「ちょ……! リィフェルまで──!」


 恥ずかしそうに手足を振り回したノォナは、結局アライアに乳を揉まれたらしい。


「……出ねえな」


「ひ、ひどい……! 伴侶でもないのに!」


 嘆くように緑の瞳をうるませるノォナの頭をなでたアライアが、眉をしかめる。


「どうする。人間の赤子は乳を飲まねえと、すぐにしんじまうみてえだぞ」


「だから僕が来てあげたんでしょ、もう!」


 唇を尖らせたノォナが懐から掌にのるほどの小瓶を取りだした。中の透きとおる液体が揺れて、虹の光をふりまいた。


「精霊樹の朝露だよ。人間には朝露くらいが限界だろうって。清水で薄めて飲ませてあげると、砕けた手足も元通りになるかも」


「よく緑のきみがお許しになったな」


 けげんそうなアライアに、ノォナは胸を張る。


「おばあちゃんに頼みこんだ僕の尽力を、ほめてほしいね」


「よくやった!」


 わしゃわしゃ緑の髪をアライアになでられたノォナがくすぐったそうに笑った。


「あげてもいいけど、条件がある」


 ノォナは大きく息を吸う。


「リィフェル、僕の伴侶になって」


 あふれる緑のひかりとともに告げられた言葉に、事もなげにリィフェルはうなずいた。


「わかった」


「待て待て待て! 伴侶だぞ!?

 そんなのを条件にするノォナもひでえが、即答で諾だなんてリィフェル、何考えてやがる!」


 叫ばれたリィフェルは腕のなかのトェルを見つめる。


「何もできねば、しんでしまう」


 そっと抱き寄せられたトェルは、リィフェルの胸に頬を寄せた。清冽の奥底にほのかに揺れる甘い香りを吸いこんだトェルは、そうっと唇をひらく。


「みにゅ」


「………………え?」


 三精の視線が、トェルに落ちる。トェルはそっと砕けていない指をのばした。


「みにゅ」


「………………みず?」


 月の瞳を見開いたリィフェルが、水瓶をひっくり返してトェルに頭から掛けようとするのを、アライアの腕が止める。


「待て待て待て待て! 違うだろ! 飲むんだよ!」


「……ああ」


 水瓶から水をすくったリィフェルは、白い椀のなかに長い指をつけた。


「月の加護を」


 ふうわり舞いあがる月の髪のむこうで、月の瞳がきらめいた。

 椀に張られた水が輝いて、アライアもノォナも目をみはる。


「それは精霊が与えられる最強の加護だ、伴侶にやるものだぞ!?」


「な、何を──!」


 アライアとノォナの悲鳴を背に、白い椀がトェルの唇にあてられる。

 傾けられた椀から水を飲もうと口を開いたトェルは、けほけほ、むせた。

 心配そうに背をさすってくれたリィフェルは、考えるように首をかしげた。


 さらさら月の髪が流れる。


 椀を傾け、清水をふくんだリィフェルのくちびるが、トェルのくちびるに、そっと、かさなった。






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