郭玄信の記憶
「どうするよ」石苞と名乗る少年は、「鄧範」と自らの名を定めた少年に声をかけた。父親が陽翟で宿にしている農家まで、走るように二人で帰ってきた。
手元に、郭玄信の書がある。質のいい竹簡を良い紐で結わえてあり、丁寧な返書となっているであろうことは、読まずとも予想がついた。
「開いてくれ」という意味の言葉を、うなるように鄧範と名乗った少年は発した。
石苞が竹簡の留め具を外し鄧範とふたり紐解くと、そこに違う世界があった。
郭玄信のもとには、二日して返書が届いた。届けに来たのはふたたび石苞という少年である。
「鄧範というのは、どんな男なのか」という意味のことを郭玄信は家人を介し石苞にたずねた。少年は口ごもり「お会いすればわかると思います」とのみ答えた。
郭玄信は石苞を待たせたまま鄧範からの返書を読んだ。しばらくは陽翟に逗留しているため、日を指定してもらえればすぐに郭玄信の邸を訪れるとあった。
「いつでもよい」そう言って郭玄信は笑った。「来たいときに来るがよいと伝えよ」
「明日にでも参るかと思いますが」と石苞が勢い込むと、郭玄信はうなずいた。
翌日、郭玄信の邸を石苞が訪れた。半ば、予想していた通りではあった。
「書簡は、私とこの者で書いたのでございます」そう言って石苞はかたわらの子供、粗末な服を着た従者らしき者と平伏した。
子供は口をモゴモゴとさせ平伏したが郭玄信はもう見ていなかった。
石苞は晋書に「姣無双」(うつくしきこと並ぶものなし)とある容貌に優れているだけでなく、驚くほど弁が立った。聞けば勃海郡の商人の息子で、今では一家で汝南に移り住み、潁川や洛陽まで父親の使いをしているという。
祖父とのあいだで交わされた陳寔の書状を見せると、石苞はおずおずと「従者にも書状を見せて良いか」という意味のことを問うてきた。
なぜかと聞くと「あの者は、自分よりも陳寔のことが好きなのです」という意味のことを、回りくどく、しかし必死に訴えてきた。
ここで、このような願いは一蹴してもよかった。そもそも石苞なる庶人の子に祖父あての書状を見せることすら、酔狂な真似なのである。それが更にその、庶人の子の従者になぜ書状を見せなくてはいけないのか。
なぜか。のちになって郭玄信はこのときのことを考えたが、答えはなかった。しかし、ここで郭玄信がろくに口もきけない子どもに書を見せなければ。あたりまえの判断をしていれば。郭玄信の名が二千年近くのちにまで残ることは無かったろう。
潁川の名族にして郭誕の息子、後漢の高官であった郭玄信の名は、姓と字こそ伝わるものの、諱は伝わらない。それでも歴史にその名をとどめているのは、まだ子供であった、石苞、鄧艾を最初に見出したと伝わるからである。
結句、郭玄信は石苞に書を渡した。母屋に入らず、ひとり待っていた従者に見せることを認めた。書状を渡された従者は食いつかんばかりに書に見入った。家人が止めに入ろうとしたが、郭玄信は目で制した。
子どもは瘧のように震えだした。そしてそのまま、いつまでも古びた竹簡を見ていた。
郭玄信はその翌日、使いを石苞の父のいる宿所まで出した。そうして改めてふたりの庶人の子どもを客として招き、歓待した。
石苞の父は名族たる郭玄信からの使いに驚きつつも二人を伴い赴いた。
石苞についていずれ高官となっている旧友に推挙すると約された。
「子息はいずれ卿や相にまで昇る」と言われた石苞の父は狂喜した。蟄居していた郭玄信へいくばくかの束脩を収め、師として仰ぐこととした。
「汝南では遠い」
郭玄信はそう石苞の父に言って石苞を潁川に移させた。彼らは汝南郡の典農部民であったため、典農部に話をつけ潁川にある襄城県の典農部民とした。そのなかに、従者と婢としての鄧範とその母の姿もあった。
石苞、そしてその従者として鄧範は郭玄信の屋敷に自由に出入りし、数万は下らぬ蔵書を見てもよいと許された。かつての高官であった郭玄信から見ても、石苞の才は際立っていた。十二だった。まだ声変わりしない声で朗々と唄う詩文はその姿とあわせ、どこまでも美しい。「まるで役者のようだ」と噂された。
ただ、郭玄信はそれよりも石苞の書や自らが教える内容の大要を掴むさまを評価した。そして堂々と郭玄信やその家の者へ接する態度を頼もしいと思うのだった。
鄧範に詩文の才はない。というより興味がないようであった。
しかし、驚くほど正確に書の内容を覚えている。いちど聞いた数や言葉などは忘れることがないようであった。郭玄信はその吏としての才を惜しんだ。
そのころ、石苞と鄧範の二人が屋敷の庭に面した廊にならんで腰かけ、餅かなにか菓子を二人で食っていたところを、郭玄信はしばしば目にした。石苞が綺麗に半分に割り、鄧範は黙って受け取り黙々と食べる。もとは石苞が父に貰った菓子か何かだろうに、鄧範はニコリともせず礼も言わない。石苞はなにも言わず分けてやっていた。
郭玄信は、その情景を晩年になってからもしばしば思い出した。
鄧艾の秋 えりぞ @erizomu
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