文為世範 行為士則
十二歳になったある日、鄧艾は母に「旅をしたい」と訴えた。潁川に行きたいのだという。潁川は遠い。汝南から三百里(150kmほど)はある。
「どうして」
母が聞くと、かつて党錮の禁で郷里である潁川に隠棲した陳寔の私宅がまだ残されているのだと、鄧艾は苦心して伝えた。
「そこに、いきたい」と訴える息子に、母は驚いていた。
息子が書を読むようになって以来、陳寔なる、すでに数十年前に死んだ人物に傾倒していたことを彼女は知っていた。それはおそらくは陳寔が貧家から身を起こし、名声を得たというところから来ているのだろう。
一人で行けるのか。彼女はできるなら連れて行ってやりたかったが、彼女が村で任されている牛の世話は好きなときに休めるような仕事ではない。結局、反対することとなってしまった。
息子がひとりで家を出たのはその夜である。朝になって彼女は気づき、動転した。
おそらくは一人で潁川に向かったのであろうが、うまく言葉の出せない体の不自由な子供にはあまりにも遠すぎた。近隣の家を廻り訪ねたが見ていないというので集落の外まで探したが結局親族の者を頼った。
鄧艾が連れ戻されたのはその日の夜である。酷く殴られ顔には乾いた血が残っていた。街道沿いで見つけたが戻れという声に全く耳を貸さず、酷く抵抗したために打擲したと聞いた。彼女は深々と連れ戻した男たちに頭を下げた。
母が荷を造りはじめたのは三日後だった。
「どうしたの」と鄧艾が聞くと、家を出るのだと母は答えた。今度は二人で行く、と。
夜明け前、僅かな荷と銭を持ち集落を出た母と子は、七日をかけて潁川にたどり着いた。宿などない。民家に無理をいって泊めてもらう。野宿もした。無事にたどり着けたのは幸運であったとしか言いようがない。
陳寔の私邸は今もあるが邸内に入れるわけもない。土塀の周囲を歩いただけで終わった。
これでいいのかと母が聞くと、息子は街道沿いに建つ、陳寔を称えた石碑を見に行きたいといった。
潁川城門の外。街道沿いに建つ石碑に着いた時にはもう日は沈みきっていた。大人の背丈ほどある黒っぽい板状の石に何か彫ってあるが、その夜の薄い月明かりだけでは何も読めない。
「残念ね」という意味の言葉を母は息子にかけた。旅はもう終わるのに、最後に碑文を読ませてやることもできなかった。心残りはある。しかしこれもまた命運であろう。
「ごめんなさい」母は謝罪した。ここまでで、旅は終わる。
「ううん。大丈夫」
そう答えてから息子はいつものように、何かを唸るように呟いていた。それが石碑に刻まれているであろう、陳寔を称えた文であることに、少しして気づいた。
「文為世範 行為士則……」
「読めるの」母が聞くと、息子は否定した。
「覚えているんだよ、書で読んだことがある」他人には呻くような声も、母には流暢に聞こえる。
息子は石碑を撫でながら、一心に頭の中の碑文を読んでいる。誰に言われるでもなく、誰に褒められるでもなく、何の役に立つでもなく、ただ好きになったというだけで、覚えた文人についての言葉を読んでいるのだ。と、母は気づいた。
「覚えているなら、ここに来なくてもよかったじゃない」
息子は何も答えなかった。なぜここに来なくては行けなかったのか、彼にも答えはなかった。
そのままずっと石碑をながめ、碑文を暗唱していた。魏志によれば、このとき彼は十二歳である。
「帰りましょう」母が言って、旅は続いた。
誰にも何も伝えず集落を出た母子は、逃散と見做されてそのまま家には戻れなかった。
結局、母は私塾の師を介し、石苞の父を頼った。一族や集落の者らは二人を赦さなかったが石苞の父は典農部に伝手があり、母子を私邸に置いておき、時を置けばそのうち元の集落に戻せるだろうと話した。
鄧艾は石苞の従者のようにして、母は屋敷の婢としてそれからを過ごした。石苞の父は汝南周辺の郡県、とくに許都のある潁川の諸県へ商いに出かけることがあり、そのさい石苞を伴うことがあったが、いつの間にか鄧艾も従って同道するようになった。
鄧艾と石苞の二人が陽翟に棲むかつての謁者、郭玄信に「陳寔の書を見せてほしい」との書状を出したのはこのころである。
石苞、鄧艾は汝南典農部では麒麟児として知られたが、姿を見せぬ書状とはいえ、幼名では郭玄信に相手にされないと考え、名を「鄧範」字を「士則」と名乗ることにした。
「文は世の範たり、行ないは士の則たり」陳寔の碑文からその名をとった。
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