綺麗な男の子
私塾の門前に、子供がいた。大人に囲まれて、朗らかに笑っている。師に手招きされて口の不自由な子供はおずおずと塾に来たばかりの子供に近づく。荷を持てと命じられて持つ。案内される子供に附いてまわる。明日から私塾に通うと師に話していた。
その日、帰宅した口の不自由な子供は母に自分より小さな子供が塾に来たことを母に話した。
「美しかった」という意味の言葉を、子供は苦労して母親に伝えた。
「その子供?」と母は問うた。子供はうなずく。まるで絵のようだったといった。
絵の中の子供が出てきたようだった、と子供は思った。
子供がわずかな束脩を収めたのみで私塾に通いだしてから一年が経つ。掃除をし、墨を摺り丸め、竹木を割って薪と簡を作る。報酬はない。
削った木の枝に墨の残り滓を溶き、木簡の切れ端に文字を擦りつけるように書く。誰とも話さない。
私塾は子供と同じように荊州から移され、屯田を行っている士人らで運営され、おなじ没落した士人、新興の商人の子弟らを受け入れて成り立っていた。彼は私塾の隅で下働きをし、僅かな空いた時間に読んで書いている。私塾には他にも通いで下働きをしている子供がいたが、彼はそうした子らとも、私塾に通う大人たちとも話すことはなかった。
後に後に石苞と名乗る子供は汝南のはるか北、渤海郡南皮で生まれた。遠く離れた汝南に至った子細は明らかでない。しかし後に使者として鄴に赴いたさい「市において鉄を販ぐ」と晋書に記載がある。とすると商人の家系であったかもしれず、そうであれば一族は商いのために汝南に至ったのかもしれない。また有り得そうな話としては、やはり曹操が建安十年に冀州に袁譚を攻め、平定した折に移徙させたものかもしれない。
なんにせよ、この物語では石苞は父にわずかでも学問を修めよと命ぜられ、汝南の私塾に通うこととなった。
はじめて父に伴われて汝南の私塾を訪れたのは十一の夏である。
黒い木でできた門前に子供がいた。石苞と同じ年のころで、薄汚い着物を身にまとっていた。子供はこちらを見るでもなくヒョイと頭を下げる。石苞が一瞥すると子供は引っ込み、少しして入れ替わりに大人が出て来た。父は大人に頭を下げると石苞を前に出し、師に挨拶せよとうながされ石苞は頭を下げた。
師は鷹揚に笑うと先ほど門前にいた子どもを手招きして呼び、石苞の荷を持つように命じた。
父と師は門前で話を続け、石苞は荷を預かった子供について私塾をまわった。子供は石苞より背が少しだけ高い。
講堂で荷を降ろした子供はそのままどこかへ行こうとした。「ここで待てばいいの」と訊ねると子供は石苞を一瞥し、口を開いたが唸るような声だけが口から出て、石苞があっけに取られているうちに去った。
「あれはほとんど喋れないのだ」とあとから聞いた。
石苞が俊才と称えられるようになったのはそれからすぐである。田舎塾には似つかわしくないほどに学才があると讃えられた石苞に、どうやらこの息子が学問に向いていると知った父らはさらに学問を修めよと求めた。
後世史書に「容儀偉麗」と称される容姿は幼年から少年へと移ろうほどに妖しいほどとなっていった。父ら一族は容貌に優れた石苞に学問を究めさせることで官職に就くことを期待した。しかしそれは叶わぬことであった。石苞の家は貧ではないが、いわゆる名族とは程遠い。なんらの伝手もない家にはどだい無理な話であった。石苞はそのことも知らず、勉学に励んだ。
石苞は大人に混じって文を学んでいる。私塾に縁者はいない。塾生として通っていたり住み込んでいたりするようなものの中に、近い年齢のものはいない。
ひたすらに師の話を聞いて書を読み書いている。誰とも話さない。門前で従者と別れ、また夕刻に従者と帰る。
石苞と呼ばれるようになる少年と、鄧艾と呼ばれるようになる少年が口を交わすようになったのは、石苞が私塾に通い出してふた月ほど経ったころからである。
夕刻、石苞は私塾の書庫に入り書を探していた。今読んだ書の続きが見当たらないのである。この時代であるから竹簡か木簡であるために、ひどくかさばり巻数は膨大になる。私塾の書庫は乱雑であって探す巻はどこにも見当たらず、石苞は苛立ち始めていた。
「口のきけない子供」としか認識していない鄧艾が書庫に入ってきたのはその時であった。
鄧艾は石苞の抱える書を一瞥すると書庫に積まれた竹簡を漁りはじめ、棚の奥から一つ、二つと石苞の持つ書の続きの巻を探し当てると石苞に無言で差し出した。
「おまえ、字が読めるの」と石苞は問うたが返事はない。鄧艾は自らの目当ての書を手早く探して、書庫を出ていった。
それから石苞は、必要な書があれば鄧艾に取ってくるよう頼むようになった。正確な書名でなくとも、鄧艾は的確に探してくる。そのうち、他の者も鄧艾に書を探させるようになった。それほど鄧艾は的確であった。
「石工は字など読めずとも石碑を彫れる」という者がいた。半ばは当たっているかもしれない。何を言われても口を歪めるようにあけて唸る子供はどれだけの字が読め、書を読んだことがあるのだろうか。
だんだんと石苞は書の中身について鄧艾に話すようになった。とくに意味があるわけではない。十歳ほどの石苞の話す内容にそれほどの意味もない。だが歳の近い者に自らの考えを話すことで、考えがまとまっていくような気がした。はじめ鄧艾の反応は判然としなかったが、相槌や簡単な返答はすぐに石苞もわかるようになった。
そのうち石苞が師に話し鄧艾を講義に混ぜるように頼んだことに、大きな意味はない。師もできる限り口頭での試問はせず、石板や作り損じた木簡などに書かせて答えさせた。
鄧艾が私塾の中で抜きんでるまでに、それほど時はかからなかった。
それは石苞も同様である。私塾の双頭であるというだけでなく、両名は汝南典農部の俊才であると評判になった。とはいえ、鄧艾と石苞では扱いは異なる。石苞は庶人とはいえ富裕な親もあり、さらに驚くほど顔が流麗であった。いずれ必ず、典農部で取り立てられるだけでなく、立身するであろうと、石苞は噂されるようになっていた。
しかし学問は鄧艾のほうが上であると、まともに話すこともできない孤児のほうが優れていると、誰あろう石苞がもっとも理解した。
石苞はこの、一見してまったくの不能に見える同じ年頃の子供が如何なる人物か、気にすまいとしても気にかかって仕方がなかった。
「鄧艾」と書いているが、彼がこのころどのような名であったのか、史書に伝わらないためわからない。こののち彼は十二歳で鄧範と名乗り、すぐ鄧艾と名を変える。
私塾の中庭に井戸があり、その横に棗の木が生えている。秋になって石苞は鄧艾がその実を食べていることに気づいた。手の届く範囲の実は鄧艾だけでなく他の下働きの子どもらがすぐに食べてしまい、あとは木に登らねば取れない。しかし鄧艾は左足を引きずるように歩き、体をあまり上手くは動かせなかった。
その日も新たに低い枝に実がならないか、鄧艾は木に近づき空しく引き返すようだった。石苞は背後からひと声かけ、一番下の枝を右の手でつかみ体を引き上げると一気に木に登った。
棗の木には棘があるが石苞は器用に避け枝の先にある実を摘み、口に放り込んだ。甘く、酸味のある果汁が口の中に広がった。
しばらく食べてから、鄧艾を呼んだ。
「落としてやるから、食べろ」
石苞はいくつか実を放り投げてから、面倒になって下の太い枝のところまで下りた。
「手を伸ばせ」
そういって鄧艾の左手をつかみ、右手でつかむ場所と、右足の置き場を指示してから一気に引き上げた。鄧艾は驚いたようだったが、石苞の手をつかんで木に登った。ふらふらとして不安定ではあったが、鄧艾は枝にしがみ付き、そろそろと手を伸ばして棗の実を摘み取り始めた。
食えるだけ食ったあとも鄧艾はなお実を集めた。
「欲張りだなお前。また登らせてやるよ」と石苞はからかった。鄧艾は小声で唸るようにつぶやいた。
「母に持って帰ってやりたい」という意味だと、石苞にはわかった。
その日、鄧艾は石苞に持たされた麻布いっぱいに棗の実を包んで持ち帰り、母を驚かせた。どうしたのかと母は訊ねた。
「綺麗な顔の男の子」という意味のことを鄧艾は答えた。
「その子にもらったの?」と母は訊ね、鄧艾はうなずいた。「絵に描かれた天女のような顔をしている」と彼は言っていた。
建文の末になり石苞の父はようやくここ汝南で商いを安定させることに成功した。屋敷を構え石苞には従者をつけられるようになった。学問も師を自邸に招くことができる。書も多くを集めることができ、もはや市塵にまみれたような私塾へ通う必要もない。そう父には説かれたが石苞は私塾へ通い続けた。
ある日、石苞は鄧艾に余った胡餅を呉れてやったことがある。礼の一つも言わずにその場で食った鄧艾に石苞の従者はいきり立ったが、石苞は笑い、鄧艾を私邸に招くようになった。
石苞の父は顔がゆがみ、うまく話せない子どもに驚いたが、石苞に説かれ蔵書の整理と目録を鄧艾に作らせることとした。自由に訪れ書も好きに読んでよいと許した。鄧艾は石苞と異なり経書や詩歌にはほとんど興味を見せず、農書や兵書ばかり読んでいたが、わけても惹かれたのがもと大丘の長、陳寔の残した書であった。貧しい家から身を起こした陳寔は詩歌も作るには作ったがどちらかといえば実用的な官吏の手引きなどが多く、そうした一見無味乾燥した書を繰り返し読み続けていた。
おそらく当時の鄧艾は官吏として生きたいと考えていたのだろうし、学才だけならば、その才はあった。しかしそれは上手く言葉を話せない子どもには、どだい無理な話であった。
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