鄧艾の秋

えりぞ

口のきけない子ども

 先を行く荷車が掘った轍に、女の子が顔を半分突っ込んでいた。泥の中から半分だけ顔がのぞく。


 横を通り過ぎるときに目を合わせると、ぼくを見ているようだった。十歳くらいのお姉さん。下半身が剥き出しになっていた。真っ白なお尻、足。血と泥にまみれてまだらだ。


 ぼくを乗せた荷車の横を歩く母が、周囲の大人と話を始めた。内容は理解できなかった。少し先に、二輪の荷車が停まっている。荷は散乱して布は風に飛んで道の脇の草むらに引っかかっていた。ぼくらの一行は、泥に顔を突っ込んだ少女を避けて先に進む。先に止まった荷車のところまで行くと、そこには男の子、ぼくより少しだけ年上の少年があおむけで倒れていた。顔の下半分がない。そこから出た血が赤い前掛けを掛けているようだった。

 ばらばらと武器を持った十人ほどの男たちが前から歩いてきた。


 男たちは近づいて何かを大人たちと話をはじめる。男たちは笑っていた。大人たちは強張った顔をしている。

 母が大人たちと口論をはじめた。

母はぼくの方をちらと見て前を向いて歩き始める。ひとりだけで男たちと草むらの中に消えた。草むらの背の高い草は揺れる。

 大人たちは誰も声を出さない。ぼくは泣いた。母がいないから。大人の一人がぼくの肩に手を置く。ぼくは泣き止まない。

長い時間が過ぎて、母が1人で戻って来た。黙ってぼくの乗っている荷車に乗った。荷車が動き出す。ぼくは泣き止まない。

母は泣かなかった。


~~~~~~~~~


 建安二十三年秋のある日、陽翟出身のかつての謁者、郭玄信は見知らぬ男からの書簡を受け取った。差出人は汝南に住む鄧範という名の男であった。家人に聞けばその日の夕刻、邸の門前にいた数人の子供が郭玄信宛ての書を託していったのだという。


 郭玄信は前年まで許都に在し、謁者の任にあった。謁者とは拝謁を望むものを皇帝へ取次ぐ官であるが、今や罪を得て郷里の陽翟で隠棲していた。


 隠棲は本人の意思ではなかった。


 当時、朝廷に吉本という名の太医令が居た。太医令とは皇帝の侍医であるから郭玄信は何度となく皇帝への取次を行っていたが、前年、吉本は謀反を起こした。謀反とは元来皇帝に叛くことである。しかし吉本は魏王である曹操に対し兵を挙げた。一時は許都を制圧したが曹操の動きは早く、数日で鎮圧され一族もろとも殺された。もとより郭玄信の与り知らぬことであった。しかし何度も吉本を帝に取次いでいたことを咎められ蟄居させられていた。


 郭玄信は地元では文人としても高名であったが、鄧艾なる男からの書簡は詩文を見てくれというのではなく、要約すれば自分と友人は陳寔が太丘の長となる前の事績を調べている。そのため潁川の名門である郭玄信の家に陳寔の書簡が残っているか、もし往時を知るところがあれば話を聞かせて欲しいというものだった。陳寔は貧農出身の小役人から太丘の長となり、徳治を行ったとして世に名高い。もう三十年以上前に死んでいるため郭玄信自体は幼時に会ったのみだが亡父は親交があり、また陳寔の孫の陳羣とは友人でもあった。


 郭玄信にしてみれば、このような見知らぬ男からの書状は黙殺しても良かった。おそらく前年までであればそうしていたであろう。ただ蟄居してから彼のもとに届く書簡は驚くほど減った。表立っての交際はおろか、特に禁じられていない書状のやり取りまで、かつての友人や縁者は憚っているようであった。

 書簡は礼に適った丁寧なもので郭玄信は好感を持った。まだ若いらしく、文人として名の通った郭玄信に指導を仰ぎたいとの文言もあり、返書を頂けるのであれば十日後の夕刻に使いを邸に向かわせるので、返書を持たせて欲しいとあった。


 数日して彼は返書を書いた。邸にある陳寔の書簡を見せても良いので、日を決めて来るのであれば家人に案内をさせるという内容であったが、鄧範が在野の若い男であることを考え、在野の貧しい身から身を起こした陳寔の事績を調べることは意義あることであるとも書いた。


 十日後の夕刻、郭玄信は返書を家人に持たせ、門中の一室で鄧範の使いを待った。家人たちが古道具などを放り込んでおく物置でかつて朝廷の高官であった郭玄信が待ったのは、使いを出すとは書いていたが、書状の差出人である鄧範が返書を待ちかねて訪れるのではないかと期待したからであった。窮屈な物置で待機させられる家人は渋い顔をしていたが郭玄信は気にしなかった。

しばらくすると家人の言っていた使いらしき、十二、三歳の子供が二人、門の中を伺うようにして現れたが、鄧範らしき男の姿は無い。郭玄信はかすかな失望を覚えた。

返書を持った家人が近づくと子供らは平伏した。一人が顔を伏したまま鄧範の使いであることを告げた。


 受け答えをしているのは子供のうち一人で、身なりもその子供の方が良かった。

郭玄信は部屋を出て子供たちに近づいた。家人は驚いた様子だったが、受け答えをしていた子供は再度平伏し、同行の子供にも平伏を促した。書簡、当時であるから竹簡の束を捧げ持った子供は礼を家人に向かって言った。貴人へ直答を避けるという礼は知っているようであった。顔をみて郭玄信は驚いた。美しいといって良い。鼻梁の通った整った顔立ちである。

「そなた、名は」

少年は石苞と名乗った。


 鄧範を知っているか、と郭玄信が聞いた時、犬の唸り声のような音がした。その音を発しているのは石苞の後ろで控えていた子供であった。みすぼらしい服を着た顔は歪み、赤黒く紅潮していた。口を動かしたとき、子供の口の中にたまった涎が土に落ちた。

「申し訳ありません。この者はうまく、話せないのです」

石苞を見ると困ったような顔をして弁解した。もう一人の子供は郭玄信を見つめて唸り続けている。家人が一喝すると石苞が謝りながらもう一人の子供を引きずるようにして門から出て行った。

犬の様な眼だ。と郭玄信は思った。


 鄧範と名乗り、のちに鄧艾と改める少年が生まれたのは、汝南から遠い荊州棘陽である。


 建安十三年、中原を制した曹操は兵を率い南下し、荊州牧劉表の遺児を伐ったが赤壁で孫権、劉備に敗れ、荊州北部を領するに止まった。その際、曹操は新たに領した荊州北部から、中原に住民を移させた。鄧艾はその一人であった。

汝南へ移ったとき少年はまだ幼かった。荊州を出る時すぐに自分も向かうと話していた父や弟、姉や祖母が汝南にやって来ることはなかった。新たな土地は豊かではあったが荒々しく、女と子どもに手に負えるような土地ではなかった。同じように移ってきた人々は自らの区画を耕し始めた。彼はまだ幼く、母一人では耕作をおこなうことは出来ず、遠い一族も母子を助けるほどの余裕はなかった。


 母はわずかに残った家財を少しずつ売ると共に、農作の下働きで彼を食べさせていくしかなかった。


 この子供がなぜか、歳が五つになっても舌が廻らず、上手く話すことができなかった。話そうとすると口を上手く閉じることが出来ないため、口をあけたまま涎をたらしていた。体もあまりうまく動かせず、子供らしく飛んだり跳ねたりはしない。わずかに左足を引きずるように歩いた。母は悲しみ、医師や咒師に見せた。汝南だけでなく沛にまで出て行き、名医と言われる医師にも見せた。乏しい家財が一層苦しくなるだけであった。顎などの骨に異常はないと沛の医師は話した。「どこかしらの経絡に詰まりがあって、神気が通じていないのではないか」ということだったが、治療方法はなかった。

 彼の母はようやく二十をいくつか越えた頃だった。再縁の話は多くあったが、一切を断った。


 その中には子供の療養に力を貸すという話もあった。しかし相手の申し出はどこまでが本当かわからなかったし、縁付いた先で言葉のほとんど話せない子供がどのような扱いを受けるか、わかったものではないと考えた。

母はこの時代の女性としては珍しく読み書きができた。そうして農作の下働きの傍ら、子に自らの持つそのすべてを伝えた。魏志によれば、そのころ母子は牛の世話をしていたとある。


 汝南の私塾に母子が現れたのは少年が十の歳だった。この子は読み書きが出来るのだと訴える若い母と、口を開け唸る子供に塾の師は驚いたが、わずかな束脩を受け取り、塾の隅に置いた。

 私塾では掃除や、塾生らの世話のような下働きをして時をすごした。口が絶えず開け放たれ、唸るようにわずかな単語を口の中でモゴモゴと話す少年は、誰にとっても白痴のように見えた。 


しかし、そうではなかった。

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