第14話 淑女の淹れる甘い毒

現実世界。


ゲーミングチェアの軋む音だけが、静かな自室に響いていた。青年――『この物語の』主人公は、両手で頭を抱え、目の前のモニターを睨みつけていた。

そこに表示されているのは、おびただしい数のテキストで埋め尽くされた攻略サイトのページ。

数日前まで、この世界に存在すらしなかった攻略サイトである。


震える手でマウスを操作し、「キャラクター別情報」の項目から「セリナ・フォン・クライネルト」のリンクをクリックする。

表示されたページには、彼女のステータスやキャラクター設定に混じって、「ルート分岐」という、ひときわ不穏な文字列が並んでいた。


ゴクリ、と喉が鳴る。

恐る恐るそれをクリックすると、詳細なフローチャートと共に、絶望的な未来が画面を埋め尽くした。


『バッドエンド1:永遠の鳥籠』

『バッドエンド2:二人だけの世界』

『バッドエンド3:紅きウエディングドレス』


彼は引き攣った顔で、最も上に表示されている「バッドエンド1:永遠の鳥籠」の詳細を開いた。

そこには、赤文字で強調された警告文が記されていた。


『通称:セリナ監禁ルート。突入条件:ディオがセリナ以外の女性、特に若い未婚の女性に対して『好意的な態度』を示したとセリナが判断した場合に上昇する『嫉妬ゲージ』が最大値に達することで強制的に発生。夜会やパーティーなど、公的な社交場で他の女性と接触する行為はゲージを爆発的に上昇させるため特に危険。イベント発生後、ディオはセリナによってベルンハルト家に古くから存在する地下の貴賓室という名の牢獄に幽閉され、彼女からの永遠の愛を受け続けることになる』


画面の隅に表示された参考CGには、手足に鎖を繋がれ、虚ろな目で微笑むセリナに食事を「あーん」されているディオの姿があった。

顔面蒼白になった彼は、反射的にブラウザを閉じようとするが、恐怖で指が動かない。

視界の端に映る掲示板には、プレイヤーたちのコメントが溢れていた。


「セリナ様マジパねぇ。視線だけで令嬢黙らせるとか覇王かよ」

「パーティーで隣の令嬢と目が合っただけで嫉妬ゲージ上がったんだが?」

「何回やっても『永遠の鳥籠』突入するんだが…」

「無理ゲーだろこれ!」




「どうしてこうなった…」


天を仰ぎながらも、彼は「攻略」として書かれた虚しいアドバイスを必死に脳へと焼き付けた。


『パーティーでは壁のシミに徹すること』

『女性との会話は必要最低限の業務連絡に留めること』

『いかなる時もセリナを視界に入れ、その機嫌を常に監視すること』。


この悪夢から逃れたいと願う思いとは裏腹に強烈な睡魔が彼を襲う。

ぐらり、と視界が揺れ、彼の意識は再び暗転していった。






「ディオ様、おはようございます」


ディオ・ベルンハルトとして目覚めた彼の耳に、執事の告げる無慈悲なスケジュールが飛び込んできた。


「本日の午後より、近隣領地の貴族の方々をお招きしての交流パーティーが広間にて執り行われます」


(早速、終わった…)


ディオは完璧な貴公子の微笑みを顔に貼り付けたまま、内心で絶叫した。


悪夢で見た情報が、間髪入れずに現実の脅威となって眼前に突きつけられたのだ。

身支度を整える彼の隣には、寸分の隙もなく完璧に着飾ったセリナが、彼の専属秘書官として静かに控えていた。


彼女が選んだ深い赤色のドレスはディオの瞳の色と揃えられており、その瞳はディオだけを真っ直ぐに映し、満ち足りたように細められている。

その献身的な微笑みが、今のディオには罪人を見守る看守の笑みにしか見えなかった。





パーティーが始まった。

シャンデリアの光が乱反射し、華やかな音楽と談笑が満ちる会場で、ディオの心だけが凍てついている。

彼はサイトの教えを忠実に守り、会場の隅、巨大な大理石の柱の陰という絶好のステルスポイントを確保。誰とも視線を合わせぬよう、手にしたグラスの中の液体をただ見つめていた。


だが、近頃、とあるヒーロー活動でたびたび問題を起こしていたベルンハルト侯爵という巨大な存在を、社交界のハイエナたちが見逃すはずもなかった。


「おお、ディオ様!このような場所でお会いできるとは光栄ですな!」


最初に声をかけてきたのは、恰幅の良い男爵だった。

その腕には、栗色の髪が可憐な令嬢が控えめに寄り添っている。


「ディオ様、我が領地のワイン、お気に召しましたでしょうか」

「お目にかかれて光栄ですわ」


男爵が媚びへつらい、令嬢が頬を染めながら淑やかにカーテシーをする。

ディオが「ああ、素晴らしいワインだ」と当たり障りのない返事をしようとした、その瞬間だった。


――スウッ、と空気が凍った。


彼の半歩後ろに影のように控えていたセリナから、音もなく、しかし物理的な重圧を伴うほどの凄まじい殺気が放たれたのだ。

それは令嬢と男爵にのみ向けられた、絶対零度の視線。


『我が主の御前で気安く口を開くでない、下賤の者共が』という無言の圧力が、二人に突き刺さる。


「ひっ……!」


令嬢の顔からさっと血の気が引き、その体は小刻みに震え始めた。


「な、なんだね、急に寒気が……」

「も、申し訳ございません!娘がご無礼を!我々はこれにて!」


男爵は脂汗を流し、娘の腕を掴むと、そそくさと逃げ去っていった。


だが、悲劇はそれで終わらない。


「これはディオ様。先日の件、ぜひともご検討いただきたく…おや、こちらの娘たちもご挨拶したいと申しておりましてな」


今度は子爵が、二人の令嬢を引き連れてやってきた。


「まあ、ディオ様…噂に違わぬ麗しさですわ」

「ぜひ、今度わたくしどものお茶会にもお越しいただきたいと…」


令嬢たちがうっとりとディオを見つめる。

ディオが社交辞令の言葉を探した、その時。


「ディオ様」


背後から、彼にだけ聞こえるほどの小さな、しかし氷のように冷たい声がした。


「このような者たちの言葉に、耳を傾ける価値はございません」


セリナはディオに微笑みかけながらも、その視線は令嬢たちを射抜いていた。


「きゃっ…!」

「な、なにかしら、この悪寒は…」


令嬢たちは蛇に睨まれた蛙のように硬直し、青ざめた顔で互いを見合わせた。

子爵はセリナの存在に気づき、顔をひきつらせる。


「ご、ご歓談の邪魔をしたようですな!我々は少し長居をしすぎた!行くぞ、お前たち!」


嵐のように現れ、嵐のように去っていく。

ディオの背中には、滝のような冷や汗が流れていた。


結果的に、嫉妬ゲージを上昇させるという最悪のフラグは回避できている。

それ故に、ディオはセリナを咎めることもできず、ただひたすらにパーティーの終了を祈り続けることしかできなかった。






永遠に続くかと思われた地獄のパーティーが、ようやく閉会の刻を迎えた。

ディオは心身ともに極限まで消耗し、自室に戻るや否や、深々とソファに体を沈めた。


今日一日で、彼の精神は数年分は老け込んだ気がした。

セリナの行動は明らかに常軌を逸している。

だが、彼女のディオへの献身と愛情がそうさせているのも事実だった。

これからどう彼女と向き合っていくべきか。


そんなことをぼんやりと考えていると、控えめなノックの音が執務室の扉を叩いた。


「入れ」


ディオが声をかけると、入ってきたのは当のセリナその人だった。

彼女は銀のトレイを手に、完璧な淑女の笑みを浮かべている。


「ディオ様、本日は大変お疲れ様でした」

「…ああ、セリナか」

「安眠効果のあるハーブを、私が特別にブレンドしたお茶でございます。どうぞ、お召し上がりくださいませ」


その手には、美しい装飾が施されたティーカップが乗せられていた。

立ち上る湯気からは心を落ち着かせるような、甘く優しい香りが漂ってくる。

疲労困憊のディオは彼女の心遣いに一瞬、警戒を解きかけた。


ありがたくいただこう、と無意識にカップへ手を伸ばす。


その瞬間、彼の脳内で、現実世界で見た攻略サイトの情報が稲妻のようにフラッシュバックした。


『――要注意:この時、セリナが夜に持ってくる飲み物には高確率で睡眠薬、魔力抑制薬、媚薬のいずれかが混入されている。飲んだ場合、翌朝見知らぬ地下室で目覚めるバッドエンド直行ルートとなるため、いかなる手段を用いても飲んではならない――』


ディオの伸ばされた手は、カップに触れる寸前でぴたりと止まった。

背筋を氷のように冷たい汗が流れ落ちる。

目の前で完璧な笑みを浮かべる絶世の美女が、今は全てを奪い去る悪魔のように見えた。

カップから立ち上る甘い香りが、死の匂いのように感じられた。





絶体絶命の窮地。

断れば彼女のプライドを傷つけ、嫉妬ゲージが別の形で振り切れるかもしれない。かといって飲めば、物理的に終わる。


ならば――飲む以外の方法でこの場を切り抜けるしかない。

ディオは、数秒にも満たない時間で思考をフル回転させ、意を決した。


彼は止めていた手を動かし、セリナからそっとティーカップを受け取った。

しかし、それをすぐに口元へ運ぶことはしない。


代わりに、優雅な仕草で空いている方の手でセリナの手を取り、その驚きに見開かれる空色の瞳を熱っぽく見つめた。


「は、はい、ディオ様?どうかなさいましたか?」


予期せぬ行動に驚き、セリナの白く美しい頬が瞬く間に朱に染まる。

ディオは、まるで囁くかのように声を潜めて言った。


「セリナ」

「はい…」

「君が私のために淹れてくれた紅茶だ。もちろん、喉から手が出るほど飲みたい」

「で、では…ぜひとも…」

「だが、許してほしい。今は、この紅茶以上に君の顔を見ていたいんだ」

「えっ…?」


セリナの瞳が、困惑と喜びの入り混じった色に揺れる。

ディオはさらに言葉を続けた。


「今日のパーティーで私はひどく疲れてしまった。だが、こうして君の美しい顔を見ているだけで、あの喧騒も煩わしい挨拶も全てが些細なことに思えてくる。疲れなどたちまち吹き飛んでしまうよ。この紅茶を飲むよりも遥かに効果があるようだ」


練りに練られたキザな台詞と真剣そのものの熱烈な視線。

純粋な愛情表現に免疫のないセリナは、完全に思考能力を奪われた。


「も、もったいなきお言葉にございます、ディオ様…!」


彼女は顔を真っ赤にして俯き、蚊の鳴くような声で呟くのが精一杯だった。

ディオはその隙を決して見逃さない。


「だから、この紅茶は少しだけ、後のお楽しみとさせてもらえないだろうか。もう少しだけ、君という最高の癒やしをこの目に焼き付けていたい」


セリナはもはや抵抗できず、こくこくと小さな人形のように頷いた。

ディオは満足げに微笑むと、しばらく彼女を見つめた後、優しく、しかし有無を言わさぬ口調で促した。


「もう夜も遅い。君も疲れているだろう、部屋に戻って休むといい。紅茶は後でいただくから、ここに置いていってくれ」

「は、はい…では、おやすみなさいませ、ディオ様」


セリナは恍惚とした表情で、しかしどこか名残惜しそうに一礼すると、夢見心地のような足取りで部屋を退出していった。


パタン、と扉が閉まる。

一人きりになった部屋でディオはソファに崩れ落ち、大きく息を吐いた。

そして、テーブルの上に置かれた紅茶を手に取ると、音もなく窓の外に広がる植え込みに向かって、その中身を全て流し捨てた。


こうして、彼は監禁フラグと睡眠薬混入イベントという二つの死線を、紙一重で回避したのだった。

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