第17話「山の天気に注意しよう」

 部屋のベッドに寝ころびながら、ふと、今はいないルームメイトのことを考える。

 ――あの風呂に、奏が。

 さっき明良が使ったあの風呂に、奏が入っている。いや、勿論全員使う風呂なのだから、奏だけではないが、どうしても意識が奏に向いてしまう。

「ちくしょう、好き放題しやがって」

 一体明良はどんな気持ちでこの夜を過ごせばいいというのか。近くの部屋であさましくも誘惑に負け好きでもない女と一時間で三回戦かましたバカがいるせいで、どうしても脳裏をそんな展開が過っていく。

 奏も奏でよくない。いくらお互いに遠慮の要らない関係性と言ったって、あんなにあからさまな態度、よくここまで我慢してきたものだと自分を褒めてやりたいくらいである。

 ――奏は。

「おれのこと、どう思ってるんだろうなぁ」

 ――いや流石に、流石にあれは。

「うお~~~~~!!!」

 もし仮にこの考えが違ったら、どうしたらいいのか。まだ結論も出ていないというのに、恥ずかしくて穴にでも入ってしまいたくなる。

 そう、そうして穴に入って、その穴の中で何もかも難しいことを忘れて一旦リセットするのだ。

「そうか、賢者タイムを使えば……」

 備え付けのティッシュを五枚くらい適当に取り出して、ベッドの上に置いてみる。

「いや待て待て待て待て、だって、いつ帰ってくるかわかんないんだぞ」

 もし仮にしている姿を見られでもしたら、末代までの恥ではないか。

 ――トイレか……?

 そう、普段と同じようにしようと考えるからいけないのだ。トイレにこもれば中で何をしていても分かるまい。よしトイレに――

「ただいま戻りました~」

 いやーいい湯でしたね、なんて言いながら、奏が濡れた髪にタオルを乗せて部屋に入ってくる。

「うわっ!」

 ついびっくりして、明良は飛び上がってベッドから落ちた。痛い。

「あ、明良くん!? 大丈夫ですか!?」

 奏が駆け寄ってきて、起き上がらせてくれる。風呂上がりの奏の髪はなんともいい匂いがした。いつもと同じ匂いがするのは、きっと自分でシャンプーを持ってきているからだろう。

「ん、なんですかこのティッシュ…………あっ、そうですよね明良くんにだってそりゃ色々ありますよねノックしてから入れば――」

「落ち着け、早まるな、まだ何もしてない」

「な、なんだ、よかった。邪魔しちゃったかと……」


 奏と一緒に部屋を出て、エレベーターに乗り込む。どうにも落ち着かなくて散歩に行くと言ったら、奏もついてきたのだ。

「…………あ、明良くん、その」

「どうした?」

「あ、いえ、なんでもないんですがその……」

 もじもじとして、少し顔を赤くして、奏は黙り込んでしまった。奏の視線は、自分の身体に向いているようだった。

 エレベーターを降りて廊下を歩く。

「わっ」

 また、奏は少しの上り坂に躓いてつんのめる。明良がそれを受け止める。

「……ん?」

 なんだか普段と感触が違う。そう、いつもよりも柔らかくて、なんと言うか、流動的だ。手を離そうと少し動かすと、指が何か少し硬いものを擦る感覚がある。

「んっ……」

「わっ、すまん!」

「ナイトブラ、忘れちゃって…………」

 さっきよりも顔を真っ赤にした奏が、言い訳のように言って、歩き出す。

 ――おいどうするんだこの空気……!

 気まずい空気が立ちこめれば、二人は特に口を開くこともできず、なんとなく足の向くままに別館の勝手口を出てから本館には入らずに、駐車場を通ってホテル正面の通りに出た。街灯こそあるものの、その暗さは都会の比ではない。点々と灯る街灯が、通り沿いの建物の灯りの少なさ故に、余計な不気味さを醸していた。

 だが、今はそんなことが気になるような精神状態ではない。二人並んで、黙って歩く。未だかつて奏との間にこれほど気まずい空気が流れたことがあったろうか。

「あの」「あのさ」

「あ、明良くん先にどうぞ」

「いや、あ、奏が先に」

「あ、いや、何ってわけじゃないんだけど……」

 ふふ、と奏はこらえきれないといった様子で笑いだす。

「まあ、明良くんは未遂、私も明良くんの手が触れて不覚にも声が出てしまったということで、一旦おあいこにしておきましょう」

「そ、そうだな」

「どうですか、違いますか、ナマ……浴衣は来てますからナマではないですね、ノーブラは」

「そりゃ違うだろ、なんていうか、違う」

 奏はまたふふと笑って、自分で自分の胸を持ち上げた。

「自分のものなのであんまりわかんないんですよね、違いとか」

「さようで。――しかし、結構歩いた気がするな」

 ふと立ち止まれば、二人の左手には鬼怒川を渡す橋がかけられていた。橋の欄干には今歩いている道路よりもよほど多く灯りが点され、夜だというのに向こう岸までなんとなく見える。

「そういえばまだちゃんと川見ていないですね」

 川の手前には階段があって、そこを下るとぐっと川が近くなる。近くなると言っても、鬼怒川はライトアップされていたりもしない。水面などまるで見えないが、それでも鈴虫の鳴き声と川のせせらぎというにはいささか激しすぎる水音が心を落ち着かせてくれる。

 ――ああ。

 旅行に来ているのだなと、ふと明良は実感した。隣に立つ奏はじっと目を凝らしてなんとか川は見えないかとスマホを取り出してライトで照らしてみたりしている。もちろん、とてもじゃないがそれで川を照らすことなどできない。

「うーん、また明日明るい時間に来てみましょうか」

「そうだな」

 まだ旅行――合宿は始まったばかりなのだ。

「私、もうこの旅行に来れてよかったなって思ってます」

 スマホを懐にしまった奏は、何も見えない川を見つめながらふとそう言った。

「そうだな」

「明良くんに会ってから、楽しいことばかりなんです。今まで嫌だったこととかも、なんだかどうでもよくなっちゃうような気がして」

「そりゃよかった。俺もお前といると楽しいよ」

「ふふ、それはよかったです」

 奏の横顔を見る。吸い込まれそうになるくらい、綺麗な横顔だった。

「今まで私、明良くんほど心を許せた人っていない気がします」

「そうか? そんなことは無いだろ。部長だっているし」

「確かに心寧ちゃんには心は許してますけど、でも家族ですからね。家族は家族で、また気を使ってしまうものですから。年上だし」

「そういうもんか」

「まあ確かに、家族の中では心寧ちゃんが一番気の置けない仲ですけどね」

 奏はそう言うと、ふと明良の方を向いた。

「なんかしんみりしちゃいましたね」

「いや、大事な話だろ」

 明良がそう言うと、奏は少し考えてから、たしかにそうですね、なんて微笑んだ。

「私って美人じゃないですか」

「そうだな」

「前にもちょっと話しましたけど、昔から、私はみんなに理想の姿を投影されやすくて」

「そうだろうな」

「明良くんのおかげなんですよ、今私がこうやってありのままの自分を見せてもいいかなって思ってるのは」

 そう言って、奏はぐっと伸びをした。だから、と言いながら崩れた浴衣を直す。

「ありがとうございます」

「礼を言われるようなことじゃないだろ、当たり前だ」

「明良くんにとっては当たり前でも、みんなにとっては当たり前じゃないんですよ。だから、私も当たり前じゃないと思ってたんです」

「そういうものか」

「そういうものです。そもそも、私は生まれてすぐに父や母からそうやって理想の女の子に育つようにと教育を受けてきたんです。そりゃあ、他人はそういう風に接してくるものだとも思いますよ」

 奏はなんでもないようにそう言うと、欄干に肘をついて体重を乗せ、ついでに胸も乗せた。

「重くて」

「さようか」

「そのあたりは、明良くんだって同じようなものじゃないですか。明良くんだって、他人との衝突を避けるために自分を偽ってきたんですから。それは家族にだってそうでしょう?」

 ――そう言われてみれば。

 そんなような気もしてきた。

「たとえば父は私に……――明良くん、今、雨が落ちてきた気がするんですが、どう思いますか」

「奇遇だな、俺もだ」

 上を見上げても、雲に隠されて月の場所さえわからない。ただ分かるのは、だんだんと顔を打つ水滴の数が増えていること。

「あの、私今、すごい嫌な予感がしてます」

「奇遇だな、俺もだ」

「この話は、またあとでしてもいいですか」

「もちろん」

 二人が階段を駆けあがって元の道で出たころ、ほどなくして雨は本降りになった。

「せっかくお風呂はいったのに!」

 奏が頭を手で庇いながらぼやく。

「こりゃ戻るころにはびしょ濡れだな」

 なにせ、きまずさに身を任せて五分は歩いたのだ。走って戻っても二分はかかるだろう。

「あの、明良くん、すいません、走るとおっぱいが痛いので先に帰ってもらっても」

「そうもいかないだろ、こんな夜道ノーブラの痴女一人置いて」

「別に今ノーブラなのは私がちょっとえっちなこととは関係ないじゃないですか!」

「ちょっと?」

「………………けっこう」

 冗談を言い合っている間にも雨は二人の身体を容赦なく濡らしていく。山の天気は変わりやすいとは言うが、まさか身をもって感じることになろうとは。

 雨の中を歩くこと五分弱、雫を滴らせたまま二人はエレベーターに乗り込む。エレベーターの床に敷き詰められた絨毯の色を濃くしながら、二人はやっとのことで五階まで辿り着いたのだった。

「明良くん、私、新しい浴衣となりの部屋から取ってきますね」

 机の上に置きっぱなしだった隣の部屋の鍵を持って、奏が部屋を出ていく。明良がさっき入浴したときに使ったタオルを出している間に、奏は隣の部屋から畳まれた浴衣を二着持ってきた。

「ところで明良くん」

「どうした」

「風呂は一つしかありませんね」

「そうだな」

「私たちは今、二人びしょ濡れになっていますね」

「……そうだな」

「この際、もはやいいと思うんです、私。だって、先生もいいって言ってたし」

 奏の手が、がしっと明良の腕を掴んだ。

「明良くん、チャンスだと思いませんか。もうこの先、しばらくこんなチャンスありません」

「おい、早まるな」

 奏は明良を引っ張って部屋を出る。

「だ、だって仕方ないじゃないですか! 片っぽ待ってたら風邪引きますよ、こんなに濡れて」

 一歩、また一歩と、浴場が近づいてくる。

「そりゃそうかもしれないが、いいのかお前」

「言ったはずです、私は無敵なんです」

 奏は脱衣所へ続く扉を開け放ち、明良を押し込んで、自分も入ると、扉を閉じて鍵をかけた。そして、深く息を吸って吐いてから、意を決して自分の浴衣の帯に手をかけた。

「明良くんも、早く脱がないと風邪引いちゃいます」

 帯が床に落ち、浴衣の前が開く。寄せられていない自然体の胸と、さっきとは違う白い下着。そのまま近づいてきた奏に帯を緩められ、明良も同じように浴衣の前がはだける。

「覚悟を決めましょう。もはや、明良くんになら全部見られても一向に構いません」

 奏はそう宣言すると、浴衣を脱ぎ去った。


 ――おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおい。

 奏が、今、自分のすぐ横でシャワーを浴びている。こんな破廉恥な状況があって許されるというのか。

「明良くん、背中、流してあげましょうか」

「俺は今お前の方を見たいという欲望に抗うので精一杯なんだ、たすけてくれ」

 薄目を開けてシャンプーを手に取り、目を閉じて頭を洗って、目を閉じたまま頭を洗い流す。同様に目を閉じたままリンスをして、目を閉じたまま洗い流して。

「明良くんってそういうところ結構律儀ですよね」

 横で奏が立ち上がる音がする。高いところからシャワーの湯が落ちる音がして、奏のシャワーから出たお湯が明良の身体にも掛かる。

「いいって言ってるのに」

「こっちは今落ち着かせることに全集中なんだよ」

「いいじゃないですか、生理現象なんだから」

「ひゃっ!」

 奏の手が明良の背中に触れる。

「……どこからそんな声出てるんですか?」

 ボディソープでひんやりとした奏の手が、明良の背中を滑る。次第にその手は背中だけでなく腕を走ったり、足を走ったり。それだけ明良の身体をくまなく触ろうと思えば、当然奏の身体が明良に密着する。明良は当たっている部位がどこなのか、それを考えないようにするので精一杯だった。そして最後に洗い残したのは――

「す、ストップ! 待て、そんなぬるぬるの手で触られたら、マズい、だいぶマズい、本当にマズい」

「あら残念」

 奏は本当に心底残念そうな声を出して、それから明良の頭上からシャワーを浴びせた。

「明良くんも私の身体、洗ってくれてもいいんですよ」

 耳元で、奏の声が頭に響く。

「本気で言ってるのか、お前」

「本気に決まってるじゃないですか。それともなんですか、明良くんは私の裸なんて見たくもないですか」

「いやそりゃ見たいけど」

 それなら、と、奏は隣の椅子に座ったらしい。

「私の身体を洗ってくれてもいいじゃないですか」

「お前、本気で無敵なんだな」

 思い切って目を開ける。隣を見れば、少し顔を赤くした奏が、こちらを見ていた。こちらの、丁度下腹部を。

「おい」

「だ、だって、いつもモザイク掛かっててみえないから……」

「すごいよな、奏って。よくもまあ欲張りになろうと思っただけでそこまで欲に従って生きられるもんだよ」

「え、悪口?」

「普通に褒めてるんだよ」

「え?」

 なんだか、頑張って見ないようにとか、たたないようにとか、そんなことを考えている自分が馬鹿らしく思えてくる。

 ――いいかもう、別に。

 相手は奏なんだし。

「よし」

 ボディソープを手に取り、馴染ませる。立ち上がって奏の後ろにまわり、その背中に手をつける。なんときめ細やかな背中だろうか。華奢で、力をいれたら今にも折れてしまいそうだと思う。

「んっ、ちょっとくすぐったいですね、これ」

 肩、背中と洗い、次にお腹、一旦胸は残して腕を洗う。

「せっかくならちゃんと全部あらってください」

 そう言うと、奏は椅子の上でくるりと前後に回転した。

「……お前ってすごいよ、ほんとに」

「身体がですか?」

「精神力が。身体もすごいけど」


 湯舟に二人並んで浸かる。いい加減、奏が裸でいることに対する混乱は収まってきて、それにどんな感情を抱くかという点はさておき、明良は自分は冷静になれていると、自分では思う。

「正直、ちょっと私もあぶなかったです」

「何がだ?」

「いえ、あと少し刺激されてたら、はい」

「はいじゃないだろ」

 再び気まずい沈黙が流れる。いったい今日一日でどれだけ奏の身体のことを知ればいいのだろうか。既に明良はキャパオーバーもいいところである。大体、女体など母と妹しか知らなかったのに、同級生の身体などにどうして耐性などあろうものか。

「あんまり長く入ってると、お互い興奮してますから、すぐのぼせちゃいそうですね。そろそろ出ましょうか」

「……そうだな」


 二人が風呂を出たころには、既に九時半を回っていた。とはいえ健全な高校生が寝るにはまだ早いような気もするが、相変わらず談話スペースには誰一人としていない。ただ微かに、相川たちの部屋からは楽しそうな笑い声が聞こえてくるばかりだった。

「なんだか疲れましたね」

「誰のせいだよ」

 部屋に入ってそれぞれの布団に腰を下ろして、二人して息を吐く。

「何か飲みませんか?」

「お茶でも入れるか」

 電気ポットには既にお湯が満タンに張られている。なんと行き届いたサービスだろうか。勿論お湯だけではなく水もある。飲もうと思えばなんだって飲めるのだ。

「その間に、ドライヤーしててもいいですか」

「ああ」

 お茶が入ってちょうど飲めるくらいの温度になった頃、奏はドライヤーを終えて戻ってきた。それから、二人でお茶を啜る。

「うーん、いいですね、こういう時間も」

「これ飲んで寝るか」

「そうですね」

「奏は、寝るときの電気は全部消す派か?」

「いえ、あの一番ちっちゃいオレンジ色のやつだけ点けてます」

「奇遇だな、俺もだ」

「あら、思わぬ共通点ですね。あれだけ点けて寝ましょう」

 緑茶を一気に流し込んで、机の上に湯呑を置く。それから各々トイレを済ませて、布団に入った。普段の布団とは違う、ホテル特有のちょっと薄くて冷たい掛け布団となんとも言えない心地の枕が、明良は意外と嫌いではない。

 しばらくもぞもぞと動いて寝やすい体勢を探って、ようやく明良は寝ようと心に決める。

「…………明良くん」

「どうした」

「しばらくイヤホンで音楽を聞きませんか」

「は?」

「いやその、だって、流石にがっつり声を聞かれるのは、恥ずかしいじゃないですか」

「何の話だ急……に…………お前まさか」

「だだだだって、仕方ないじゃないですか、一緒にお風呂はいったんですよ。お、おまけに明良くんの身体を私が洗って、明良くんに身体洗ってもらったんですよ。あっちもこっちも明良くんに触られて、我慢できるわけないじゃないですか……!」

「分かった。――そしたら、俺はもう一度トイレに行く。お互いイヤホンをしておいて、終わったら、LINEで合図をしよう。それでどうだ」

「名案です。……じゃあ、すっきりしてまた会いましょう」

「……なんかもっと言い方ないのかよ」

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