君の嘘に、恋をしたい

坪井 聖

君の嘘に、恋をしたい



 『打つ手はありません。持って三ヶ月です』

 不穏な言葉。木立が風にそよぐ。葉擦れの音色が、心の鼓動を止めた。

 嘘、だよな? なあ、いつもみたいに、「うっそー!」って言ってくれよ。

 付き合って一年。記念日の数日後に、彼女のがんが発覚した。これから続く未来へ、希望と一緒に漕ぎ出そうとしていた矢先だった。

「そんな感じで淡々と言われてさ、びっくりだよね!」

 医師から伝えられたその非情な事実を、望来ミクはいつもと変わらないはにかんだ笑顔と一緒に、透き通った声で僕に話した。一ヶ月前の七月のあの日。彼女の誕生日だった、七月七日のあの日。暑熱を含んだ風が、不快に体を撫でていたあの日。彼女のその告白が沈黙に響き、蝉時雨が虚しく降り注いでいたあの日。

「ごめんね、暗い思いさせて。私も、お医者さんにがんだって言われた時、今のノゾムと同じで言葉を出せなかった。私のことじゃないよね? え? 誰のこと言ってるの? そんな感じで、自分のことじゃないみたいに」

 言葉をすぐに出せなかった自分が、情けなかった。「ごめんね、暗い思いさせて」なんて、言わせてしまった。

「嘘……じゃないんだよな?」

「うん。ほんとだよ」

「どうにか……どうにかならないの? 治る可能性は? 治療法は……」

「ごめん、希。お願いだからやめて。覚悟が揺らいじゃう。死ぬのが、怖くなる」

 覚悟が揺らぐ。その震えた言葉の重みが、僕を俯かせる。嘘じゃないんだ。たくさん悩んで、泣いて、泣いて、泣いて、どうしようも無いとわかって、十七歳の彼女が、覚悟を決めたんだ。決して他人じゃない。幼稚園からの幼馴染で、両親同士も仲が良かった。出会った時から、照れくさい両思いの糸がずっと薄く繋がっていて、去年、高校まで一緒になったタイミングで、僕から告白した。望来は泣きながら頷いてくれた。

 嬉しい時も、悲しい時も、辛い時も、ずっと一緒だった。感情の触れ合う日々が、当たり前だった。だからこそ、彼女の覚悟が冷静にわかってしまう。狂ってしまった方が、どんなに楽だろう。

 これからだった。まだまだ、これからだった。なのに、神様、あんまりじゃないか。

「覚悟って……。俺は無理だよ。そんなん……受け入れられるわけねーじゃん!」

 僕たちの間を吹き抜ける、虚しい風。ざわめく木立。ざわめく心。

「ありがとう、希。そんなに悔しがってくれて。悲しんでくれて、ありがとう」

 顔を上げた先に、望来の笑顔がある。引き攣った、無理をした笑顔。

「……意味わかんねえ。なんでそんなに穏やかなんだよ!」

 強まる語勢は、そのまま僕の心の弱さを表しているようで、不快だった。望来はずっと、柔らかい目色で僕を見つめている。耐えきれなくなって踵を返した僕の背に、彼女の声はかからなかった。けれど、背中に感じる微かな温もりから、引き攣った笑顔で僕を見ていることはわかった。


 あの日から数日後、望来はすぐに入院となった。詳しい病状は伏せられて、長期間休むことだけがクラス中に伝えられた。これは彼女の意思だろう。周りに心配をかけたくないからとか、そんな理由だと思う。ただ、数ヶ月という入院期間の長さに、疑問を持つ友人もいた。「ねえ、本当に大丈夫なの?」と、その質問を何回受けたかわからない。どの友人も、彼女に連絡しても体は大丈夫と言われ、見舞いは断られているらしい。大丈夫なわけねーだろ……。心の中で叫び続けた日々は、苦痛でしかなかった。

 夏季休暇に入るまで、部活を休んで僕はがんについて貪るように調べ続けた。医学的根拠がない療法でも、怪しい療法でもなんでもよかった。少しでも、未来への道を細くしたくなかった。いや、違う。何かしていないと心が崩れてしまいそうだった。大切な人がいなくなる。それを受け入れることは、僕には到底できなかった。淡く、黒く、輪郭を掴めない人の死という得体の知れないものに、立ち向かうことができなかった。

 五限の授業。その終わりのチャイムが鳴り響く。帰りのホームルームに参加して、乱雑に学生鞄を肩に掛け、足早に校舎を出た。少しでも早く家に帰って、図書館で借りたがんに関する本を読み漁る。その行為に縋ることしか、今の僕には考えられない。

「希、入るよ」

 ドアを叩く柔らかな音が部屋に響く。返事を待たず、父さんが部屋に入ってきた。そうか、今日は母さんと出かけるから、有給を取ると言っていた。

「どうしたの? 何か用?」

 視線を本から外さず、ぞんざいな物言いの僕に反して、背後から届けられる父の声は穏やかだった。

「望来ちゃんのお見舞い、行ってるのか? 友達のお見舞いは断ってるみたいだけど、お前は別だと思うぞ」

「行ってないし、そんなことわかってる」

 望来と連絡は取っていたけれど、見舞いには行っていなかった。

「じゃあ、どうしてだ?」

「治療法を見つけてから行く。その方が望来も喜ぶ」

 刹那、静寂が辺りを覆った。押し潰されるような深い重みを持って。

「望来ちゃんは、もう助からないよ」

 熾烈な血の流れを体中に感じた。本を机に叩きつける。思いやりを置き去りにして、上気した顔を父に向けた。

「うるさい! そんなのわかんないだろ! 何だよ、父さんは助かって欲しくないのかよ!」

 父の目を見て、僕の中の熱は急速に温度が下がった。放った言葉の余韻が、静寂の空気に虚しく響く。父の目は微かな潤みを帯びて、まっすぐ僕に差し伸べられていた。

「希、もう時間がない。たくさんありがとうって、伝えてあげなさい。一緒にいれて幸せだったと、伝えてあげなさい。感謝を、伝えてあげなさい。二度と、伝えられなくなるんだ」

 震える父の姿を、初めて見た。目を潤ませる父を、初めて見た。人の死は、尊く、儚く、辛いものだという事実が、ゆっくりと心に染み込んでいった。そして、望来の死の実感が、暗がりから急に姿を現して、潰す勢いで僕の心を強く握った。

 何も言えなかった。唇が震え、俯くことしかできなかった。涙も出ない。アブラゼミの徐々に小さくなる鳴き声が、窓外から耳に届くだけだった。


 夏季休暇の初日、僕は望来が入院する病院を訪れた。面会受付用紙の記入を済ませ、階段を上る。進むにつれて濃くなる薬品の匂い。すれ違う病衣姿の人たち。賢そうな白衣の人たち。四方から聞こえてくる病気に関する話題。感じるもの全てが非日常。それが足を重くする。

 病室から出てきた看護師に黙礼した後、軽くドアをノックした。「どうぞ?」という返事が僕の耳に届く。何度も聞いた声だ。これからも聞けると思っていた。その未来を疑ったこともなかった。彼女の、声だ。

「あ! 希! 薄情者の彼氏がついに現れましたあ」

 その言葉に、悪意の欠片も無かった。いつもの微笑を顔に浮かべている。

「望来、ごめん。俺っ」

「いいの、ありがとう。メッセージでいつも励ましてくれて。私のために、たっくさん病気のこと調べてくれて」

 窓の隙間から、薫風が流れ込み、沈黙に彩りを与えた。彼女の香りを、ほのかに感じた。二の句を継げない僕をあやすように、彼女はクスッと笑う。

「でも、本当はもっとたくさん、一日でも長く一緒にいたかった。私にはもう、時間がないから。だから、来てくれて本当に嬉しい」

 望来の瞳に、薄い影が差した。けれど、その曇りのない瞳は、彼女の覚悟をはっきりと示していた。その覚悟が、僕の心に突き刺さる。彼女のように、強く死と向き合えない自分が情けない。でも、無理だ。無理なんだよ。

 望来の側で膝を折り、彼女の手を強く握った。

「本当に、本当に、もう、死ぬの……?」

「うん……もう、ダメみたい」

 なんで。なんでだ。なんで。

 神様、なんで望来なんですか。彼女は、何も悪いことをしていないじゃないですか。

 ただ、ただ側にいたいだけなのに。そんな願いも、叶えてもらえないんですか。

 俯き、望来の顔を見れない僕とは違って、彼女はまっすぐ僕を見ている。頭を覆う温もりが、それを告げている。

「でもさ、希。私、本当に死ぬの?ってくらい、今落ち着いてるの。元気なんだよ。元気いっぱい!」

 見上げると、望来は微笑んでいる。精一杯の強がりを背負って。

 嘘つくなよ。ぼろぼろじゃないか。以前よりやつれた君の腕。その腕に刺さる非情なプラスチック。床頭台に置かれた種々の薬。どれだけ辛い思いを抱えているのか、どんなに鈍感な人間でもすぐにわかるよ。その痩せ細った体が背負うには、あまりにも大きすぎる苦痛を。

 でも、そんな君の嘘に、縋りたい僕の弱い心を、許してくれ。君みたいに、笑えないんだよ。

「元気なら、よかったよ……」

 ようやく絞り出した言葉がそれかよ。自分の心を、助けたいだけじゃないか。

「うん! 嘘ついてないからね? あ、ねえねえ。私のお願い、聞いてくれる?」

「え、何?」

「病院の中庭なら、散歩していいって許可をもらってるの。一人は寂しいからさ、これからたくさんお見舞いに来て、一緒に散歩して?」

「もちろんいいけど、両親とだってそんなこと……」

 望来はため息を漏らした。いつもの癖だ、僕の発言に本気で呆れた時の。

「希の悪いとこだよ。もっと人の思いに身を寄せなさい!」

「どういうこと?」

 望来は、もう一度、大きなため息を漏らす。

「まったく……。希と過ごした証を、心に刻みたいの。残りの時間は、大切な人と目一杯過ごしたい。だから、お願い」

 望来と話すと、僕は毎回自分の感情の未熟さを知る。脆く、朧げで、自分本位なこの感情を。

 君の感情の向かう先には、常に人がいる。

「わかった。たくさん、たくさん、一緒に思い出を作ろう」

 震える僕の手を、彼女はそっと握った。

「ありがとう、希」


 夏季休暇中、僕はほぼ毎日、望来の見舞いに行った。彼女の両親を交えて会話した後は、二人で他愛もない話で盛り上がって、笑い合った。当たり前に続くと思っていた時間に、徐々にすり減っていくその時間に、感謝と寂しさと恨みとを感じながら、僕は彼女との時間を過ごした。

 病室でひとしきり話した後は、必ず中庭で望来と散歩をした。一階の小児科の待合ロビー。その側に中庭の入り口があった。ガラス越しに見える色の溢れた景観がそう感じさせるのか、小児科周辺は明るく澄み切った空気が漂っていた。

 中庭には多種多様の花が静かに佇み、その景色を囲うように青葉が茂っていた。陽の光が葉を照らし、樹冠の上下で鮮やかなコントラストを生んでいた。花壇にはマリーゴールド、コスモス、ダリア。白い箱の中で、色が命の輝きを強く示していた。病衣姿で跳ねるように歩き、笑顔を浮かべる彼女の輝きも、全く負けていない。夏の片隅で燃える命は、等しく眩しかった。

「ダリアってさ、なんかフグの刺身の盛り合わせに似てない?」

「はい?」

「あ、刺身って言わないか。てっさって言うんだっけ?」

「いや、そこ疑問に思う? それより、なんか花に失礼な気がする。フグと比べられて」

「希、それはフグさんに失礼だな。うん。謝った方がいい。全国のフグさんに」

「何言ってんのさっきから。おかしくなった? ついに」

「ついにってなんだよ!」

 少しの沈黙。見つめ合って、耐えられなくなって、笑い合った。自然と指を重ねて、またゆっくり歩き出す。限られた時間が、こんな当たり前の日常に幸せを与えているのだろうか。きっと、違う。気づかないだけで、忘れているだけで、大切なものは、ずっと側にある。

「この小さな木、綺麗だね」

 望来が立ち止まる。サークルベンチの真ん中に直立して、濃いピンク色の花を存分に咲かせるその木を見上げた。

「百日紅って書いてある。なんて読むんだろ」

 僕の問いに、望来はスマホを素早く叩いて答えた。中庭では携帯を自由に使っていいことも、彼女が中庭を好む理由の一つだ。

「サルスベリだって! あ、開花時期が長いみたい。秋くらいまで咲くって。私より長く咲けよ〜」

「それ、冗談のつもりで言ってる? 不謹慎すぎて、全然笑えないんだけど」

「ごめんごめん! 渾身のギャグ成功ってことで」

 少し引き攣ったその笑顔を、君の優しさという嘘を、僕がわからないわけないだろ。



 余命宣告から、二ヶ月が経過した。

 僅かな可能性に縋りたくて、苦しいとはわかっていても、抗がん剤治療を選択した。食欲は無くなるのに、何度も込み上げてくる吐き気が辛かった。治療後に遅れて吐き気がくることも何度かあったから、希に会う時は常に気持ちを張っていた。吐く姿なんて、見られたくなかったから。

 治療を続けても、良くなる兆しは見えなかった。希と会う日の朝、看護師さんに頼んでシャワーを浴びる許可をもらったけれど、浴びた後の絶望は忘れられない。排水溝周りに横たわる、大量の髪。私の尊厳。脱毛を抑える工夫は治療中に凝らしていたけれど、一回のシャワーでこんなに抜けるなんて……。その場にくずおれて、一人で泣いた。命の終わりが、近づいてる。逃げれないんだ。もう、本当に。

 何度目かの中庭散歩。その時は満足に歩けなくて、車椅子で希と散歩した。車椅子姿なんて見せたくなかったけど、なんとなく、もう彼と過ごす時間がないと感じていたから、プライドは捨てた。その代わり、精一杯のありがとうを伝えた。

 生まれてくれてありがとう。

 私と一緒にいてくれてありがとう。

 私と散歩してくれてありがとう。

 私と心を通わせてくれてありがとう。

 私と肌を触れ合わせてくれてありがとう。

 私に体温を分けてくれてありがとう。

 私と笑い合ってくれてありがとう。

 私を愛してくれてありがとう。

 ねえ、希。「もう死ぬみたいに、そんなにありがとうって言うなよ」って言ってたけど、私、死ぬんだよ? もう、ありがとうも伝えられない。だから、たくさん伝えた。死ぬ間際に言えって? 無理だよ。体がどんどん痛くなっていく。自由が効かなくなっていく。そんな状況で、人に優しくできるほど、人に感謝を伝えられるほど、私は強くないの。わがままでごめんね。

 希に感謝を伝えた後、急に視界が揺れた。目に映る風景がぼやけて、急激に遠ざかる。 胸に鋭利な痛みが走って、一気に体中を駆け巡る。車椅子から、体が崩れ落ちる。呼吸が、できない。体が、重い。潰される。私を置いて先走る意識を、この世界に繋ぎ止めるだけで精一杯だった。彼が慌てて私の名前を何度も呼んだけど、応えられなかった。

「まずい、すぐに運んで!」

 駆けつけた担当の先生の叫ぶ声が聞こえて、すぐにストレッチャーに乗せられた。その瞬間、下からたくさんの手が出てきて、私を引きずり込もうとした。何も見えない闇の底に。命が持っていかれる。いや、いや、いや! 怖い。助けて。ママ、パパ、希、お願い……。私、生きたい……。


 先生たちの懸命の処置で、なんとかその場は事なきを得たけれど、私はもう、本当に死ぬんだとわかった。目覚めた時、先生とパパが病室の隅で話をしていたから、目覚めていないフリをした。ママはパイプ椅子に座り、俯いていた。風に煽られざわめく夏木立。窓外から聞こえるその音色は、いやに虚しく病室に響いていた。

「望来は、どうなんですか……」

 先生の声はボソボソしていて、はっきり聞こえない。でも、もう何度も経験した。この空気はたぶん、悪い報告だ。話を終えて先生が病室を出ると、勢いよく立ち上がる音が聞こえた。うっすら目を開けると、ママがパパの胸の中で泣いていた。

「もうこれ以上、望来が苦しむ姿なんか見たくない。変わってあげたい……変われるものなら、今すぐ変わってあげたい……」

 パパは、何度も頷きながら、黙ってママを抱きしめていた。

 私のせいで、人が泣いている。大好きなママとパパを、苦しめている。

 私、どうすればいいの? 誰か教えてよ。

 私の所為で、誰も泣いて欲しくない。苦しい顔をして欲しくない。

 でも、元気なフリをするのは、嘘をつくのは、もう……疲れた。

「怖い。死にたくない。ママとパパと、みんなともっとたくさん一緒にいたい……生きたい……」

 心の中で思ったつもりだったのに、形になって口から言葉が漏れ出ていた。両目から、涙が止まらなかった。もう、強がるのは無理だった。

「望来!」

 ママの温もりが体を駆け抜けた。大好きな、ママの匂いだ。

「ママ、ごめんなさい。私すごく怖いの。怖くて、怖くて……。死ぬのが怖いよ。生きたいよ。もっともっと、いろんなことしたいよお」

 涙がママの右肩に落ちて、静かに模様をつけていく。

「謝らなくていいの。ごめんね望来。ママたちばかり辛そうにして。望来が一番辛いのに、ごめんね。治してあげられなくて、ごめんね……」

 今度はパパの温もりが体中を覆った。私とママを、強く抱きしめてくれた。

「ママとパパは望来が大好き。ずっと、ずっとずっと、側にいるからね、望来」

 私は言葉を出せなかった。今は二人の匂いを、体温を、温もりを、いっぱいに感じていたかったから。


 三人とも心が落ち着き、パパが飲み物を買ってくると言って病室を出た。

 私は、決意した。

「ママ」

「ん?」

「お願いがあるの」



 望来が目の前で倒れた日から、僕は彼女と会えなくなった。何度も連絡をした。けれど、返事はなかった。病院に行っても、面会謝絶だった。ロビーで、彼女の両親を待った時もあった。あの時、周りの目も考えず二人に迫った。敬語もまばらで、かなりの剣幕だったと思う。「なんで会えないんだよ! おかしいじゃないですか!」と、凄む僕を制することもしないで、彼女のお父さんは優しい顔で、「希くん。本当にごめんね。もう、望来とは会えないんだ。それほど重い状態なんだ」と言った。呆然とする僕に頭を下げて、二人は通り過ぎた。僕に向けられた数多の視線と、それに乗せられた好奇の関心は、たちまちロビーの雑多な音に消えていった。

 もう、会えない? あれが最後? 望来は、色々わかっていたから、僕に感謝の言葉をたくさん言ったのか。だとしたら、なぜ、なぜ僕はすぐにそれに応えてあげられなかったんだ。なんでもっと早く、一日でも長く、彼女との時間を作ろうとしなかった。逃げて。逃げて。逃げ続けて。何が治療法を見つけるだよ。何してんだ、僕は。でも、返事くらいはしてくれてもいいじゃないか。携帯を少しいじるだけだ。なんで……。たくさん思い出を作ろうって約束したじゃないか! いや、何考えてんだ。それもできないくらい、あいつは辛い状況なんじゃないか!

 ああ、まただ。自分勝手な感情が先立とうとして、それを抑えて。最近のその感情の繰り返しに、どうにかなってしまいそうだった。

 しばらく無感情に立ち尽くしていると、お見舞いなのだろう、病室へと急ぐ男性が僕の肩にぶつかり、僕は力なく尻もちをついた。

「ああ! ごめんなさい! 大丈夫ですか? お怪我は……」

「いや、こちらこそすみません。僕がぼーっとしてただけなので」

 起き上がれるように手を差し出す彼に、「大丈夫です」と言った。彼は「本当にすみません!」と何度も頭を下げて、再び慌ただしく病室へと向かった。また、人の視線が突き刺さる。けれど、そこには何も感じない。うなだれる僕の頭上から、居丈高に降ってくる日常の音。ただ、無力な自分を呪った。彼女の命が尽きてしまう。会うこともできない。何もできない自分の無力さを。何も、何も……。

 君は僕と会う度に、元気だと言った。心の強さからくる嘘だ。でも、僕は弱い。その嘘が本当だったらって何度も思った。君が本当に元気だったらって。君の嘘。元気な君の姿。こんなの、身勝手な想いだってわかってる。わかってるけど、僕は……。

 君の嘘に、恋をしたい。



 ねえ、希。許してね。私、決めたの。このまま命の火が消えるその日まで、もうあなたには会わないって。どうして? それは、ただの私のわがままだよ。あなたが好きでいてくれた私は、これからどんどん、どんどん見るに耐えない姿になっていく。そんな姿、見られたくないの。医療用ウィッグをつけて、惨めな自分を偽って、その姿を希に見せる日々に、耐えることなんてできない。

 たくさん考えた。希のこと。喧嘩もたくさんしたのに、なんでだろう、今はすっごく、そんな思い出も愛しいんだよね。当たり前って、愛しいものなんだね。もっと早く気づきたかったなあ。大切なものは失って初めて気づくなんて、いじわるな心のルールだよね。だって、その失った原因が命の終わりなら、もう、二度と取り返せないし、やり直せないもん。ああ、もっともっと、大好きな希と思い出を作りたかったなあ。

 ああ、だめだ。やっぱり会いたい。会いたいよ。希。

 まだ、あなたと触れ合いたい。

 あなたと、一秒でも長く一緒にいたい。

 心を通わせたあなたと、少しでも長く。

 ごめんね。希。そして、ありがとう。



 望来の訃報は、両親から告げられた。涙は流さなかった。彼女と会えなくなってから、覚悟はしていたから。けれど、もう一度だけ、もう一度だけでいいから、望来と心を通わせたかった。

 斎場へ向かう朝。望来が病気になってから、命の限りを知ってから、僕だけが繰り返すことのできる日常が不快だった。今日、彼女と会う。命が尽きた彼女と。腰が、重い。

「希、お別れをしに行こう」

 父さんが僕の肩に手を添えた。母さんも「行こう、希。望来ちゃんに怒られるよ」と、無理をした笑顔で言った。僕は、頷き腰を上げた。

 大切な人を隠した世界。涼やかな風が、優しく街を撫でていた。夏の主役である木立から葉が落ちて、その化粧は薄くなっている。けれど、枯葉の散り敷くアスファルトの道は、朝陽を照り返して煌めいていた。季節の移ろいを、もう、望来は感じることができない。

 斎場は、日が入りずらいのか少々暗かった。白い壁に覆われた斎場。温もりを感じない大理石で囲まれたロビーが、虚しさを駆り立てる。祭壇には、望来の写真が飾られていた。整列されたパイプ椅子には、喪服姿の参列者がまばらに何人か座っていた。ハンカチで涙を拭う人。俯いて身じろぎもしない人。彼女の写真を仰ぎ見る人。大泣きする彼女の友人たち。棺の前には人集りがあって、凛とした佇まいで立つ男女が、そこから抜けて僕たちに近づいてきた。彼女の両親であることはすぐにわかった。

「今日は来てくださり、本当にありがとうございます」

 望来の両親の言葉を合図に、両家ともに深々とお辞儀をした。

「希くん。来てくれてありがとう」

 望来のお父さんが、優しい目色で僕を見つめる。目尻に少し赤みがあった。

「はい。あいつに、天国から怒られたくないので」

「ははは! 確かに。あの子はすっごい大声で怒るな。私もそんな声は聞きたくない」

「はい……。あの、あの時は、乱暴な言葉を……すみません……」

「いいんだよ。こちらこそ、ごめんね、それよりも希くん、望来に会ってやってくれ」

 僕は、黙って頷いた。

 棺に歩み寄る。覗き窓から見える望来の顔。化粧されたその白く綺麗な顔から、いつもの元気な生気は感じられない。でも、なぜだろう。いつものようにあの笑顔を向けてくれている気がする。相手を思いやった、優しい笑顔を。

 ゆっくりと顔を近づける。仄かに、木の香りがした。

「なんだよ、望来。化粧なんてしてもらって。全然似合ってないよ」

 沈黙以外に、応えてくれるものはなかった。

「……。なあ、いつもにみたいに言い返してこいよ。……なあ!」

 棺の両端を強く握る。けれど、すぐに力が抜けてそのまま崩れ落ちた。くそ、くそ、くそ! なんでだ、なんでだよ。なんで望来が……。

 肩に温もりを感じた。望来のお父さんが、そっと側にいてくれた。


 葬儀が終わった。望来の命が、形として無くなってしまった。もう二度と、その姿を見ることはできない。もう二度と、心を通わせることはできない。ロビーを出て空を見た。僅かに雲があるだけで、澄み渡っている。その雲のどこかに彼女を隠しているなら、今すぐ、今すぐ会わせてほしい。覚悟をしていたなんて、強がりなんだ。なあ、望来。お前、どこにいっちゃったんだよ。

 両親に促され駐車場に向かおうとした時、

「希くん!」

 望来のお母さんが、僕を呼び止めた。

「今日は来てくれて本当にありがとう。これを、受け取って欲しいの」

 差し出された手の中には、薄いピンク色の便箋が佇んでいた。言葉を出せない僕を置いて、お母さんは話を続ける。

「ごめんね。あの日以来、望来に会わせてあげられなくて。あの子の最後の想いが、ここにあるの。お葬式が終わったら、希くんに渡すように頼まれてた。お願い、あの子の心を、聞いてあげて」

 小刻みに震え始めた手。そうだ、この人も無理をしていたんだ。望来を大切に思う人は、みんな。

「ありがとうございます……。今、読んでもいいですか?」

 望来のお母さんは黙って頷いた。涙を堪えた顔をこちらに向けて。振り返ると、両親も頷いてくれた。

 便箋の封を開けると、淡い肌色の手紙が入っていた。一番上には、望来が好きだったうさぎのマークが施されている。視線を文字に合わせる。僕は、彼女の心に触れた。


『希へ』

 やっほ! 

 あ、今イラっとしたでしょ?

 全米が泣いた!みたいな内容を想像したんでしょ? はい! 騙されましたあ。

 ……。ごめんって。謝る。ちゃんと書くね。

 まずは感謝からね。希、本当にありがとう! いつも私の側にいてくれて。

 幼稚園からの付き合いだけど、はっきり言って、その時から希のことが好きでした。ませた園児だね。

 入園日のこと覚えてる? 私、ママと離れたくなくて、滑り台の上で駄々こねてた。

 その時、希は後ろから急に私を押して、一緒に滑った。あれ、私じゃなかったらもっと泣いてたぞ!(笑)

 でも嬉しかった。びっくりして後ろを見たら、いっぱいの笑顔で笑ってくれてたんだもん。

 あの時から、大好きだった。

 告白してくれた時も嬉しかったなあ。ぐずぐずしてたら、他の男に行くぞ!って思ってたからね!

 でもさ、正直、私たちの関係って恋愛の枠じゃ小さすぎるよね。

 小さいころから、ずっと一緒だった。

 一緒に嬉しさを共有して、悲しさを共有して、怒りを共有して、笑い合って、泣き合って、喧嘩して。

 そうやって心を通わせて、重ねて、私たちは生きてきた。

 何が言いたいかわかる? 鈍感な彼氏さん?(笑)

 私たちは、心が繋がってるってことだよ。

 私はもう、希の側にはいられないけど、心が繋がってるからいいの。

 すっごい重い女かもしれないけどさ(笑)、ずっとずっと、私は希の心の中にいるから。

 だから、いつまでもうじうじしてたらわかるからね! 天国から大声で怒鳴ってやる!

 なーんてねっ。

 希の幸せを、心から祈ってます。ずっと、一緒だからね!

 望来


 最後まで、僕を悲しませないように強がって……。静かに手紙を畳むと、その後ろにもう一枚、手紙が入っていることに気づいた。震えた字で書かれていたその手紙は、涙を落としたのか、所々に液体の乾いたような斑模様があった。


『最後に』

 ああ、だめだ。

 今この手紙を書いてるんだけど、だめ。ごめん、希。

 私ね、嘘をついたの。この気持ちは、心の中にずっと隠しておくつもりだったけど。

 本当はさ、体がきつくて、しんどくて、毎日自分の体じゃなくなっていく感覚があって、辛かった。

 元気!だなんて、嘘なんだよ。

 怖い。死ぬのが怖い。希に会いたい。会いたいよ……。

 死ぬ覚悟なんてできてない。全部嘘。全てが怖くてたまらない。怖いよ、希。

 ごめんね、嘘ついて。病気が重いのは本当だけど、どんどん変わっていく自分の体と心を、希に見られたくなくて、会わない決断をした。

 メッセージのやり取りを続けたら、自分の嫌な部分が出てきそうで、それすらもやめた。

 ごめん。自分勝手で。本当にごめんね。ああ、どんどん性格が悪くなっていく気がする。だめだめ。

 嘘つきな私を、どうか嫌いならないでね……。

 さ! 嘘も白状できたし、締めくくります!(笑)

 希、こんな私を好きでいてくれて、本当にありがとう。大好きだよ。いつまでも、ずっと。ずっと。


 僕は、ゆっくりと手紙を便箋に戻した。嗚咽混じりの声で、俯きながら望来のお母さんが話す。

「希くん、本当にごめんね。望来は、最後まで希くんのことを話してた。望来の希望でいれくれて、ありがとうね。本当に……」

 お母さんの嗚咽する姿。望来の命が消えた事実。振り返って見た両親の優しい表情。糸が、切れてしまった。

「もう、だめだ……」

 僕は、膝から崩れ落ちた。泣きたい、もう、泣きたい。一番辛かった望来は、いなくなってしまった。だから、泣かせてほしい。

「あああああああああ!」

 顔に力が入らない。涙が止まらない。僕の大きな泣き声が澄み切った青空に昇り、虚しく消え続けた。



 愛逢月の夜を越えて、今日も朝を迎えた。望来がいなくなって、もう半年以上経った。今日は、君の誕生日、七月七日だ。

 学生鞄を肩に掛け、外に出る。最寄り駅までの道に沿って続く川。彼女と、ここを何度も歩いた。少し濁った水面には夏落葉がまばらに浮いていて、川の流れに身を任せて、緩やかに、しかし確実に命の果てへ進んでいる。横の木々に止まる空蝉。吹き荒ぶ夏の風。揺れる若葉。僕もまた、その風に煽られるようにゆっくりと歩みを進める。俯く僕の目の中で、アスファルトの映像が虚しく上下に滑る。

 溌剌とした足音が耳に響く。顔を上げると、ランドセルを背負った小学生の男女が走ってこちらに向かっている。男の子が僕の少し先で急に立ち止まり、女の子もそれに倣った。男の子が、女の子の顔を不安げに覗いた。

「そういえばさ、風邪治ったの? こんなに走って大丈夫?」

「え? ううん……実は、全然大丈夫じゃない。ああ、やばい……」

 わざとらしく、女の子は右の手の平を額に当てた。

「え……?」

「うっそー!」

 女の子が元気に走り出す。「嘘つくなよー!」と、笑顔で男の子が追いかける。「嘘つきな私は嫌いー?」と女の子が言って、男の子は走りながら赤面して、首を横に振った。その愛らしい光景に、日常に、僕は思わず微笑んだ。そして何かに導かれるように、澄み渡った夏空を見上げた。


 なあ、望来。君がいなくなってから、ずっと考えて、わかったことがあるんだ。

 僕は自分に、嘘をついた。君と、君の命と向き合えなくて。

 元気だっていう望来の嘘はわかっていたのに、それが本当だったらいいなって。

 その嘘に、元気な望来に、恋をしたいって。

 でも違うよ。違う。そうじゃない。自分がどんなに苦しくても、そんな優しい嘘をつく望来が、僕は好きだったんだ。

 嘘は必ずしも、嘘じゃない。

 君なんだ。その優しい嘘もまた、本当の君なんだ。どこまでも優しい君なんだ。

 君の全てが、僕は大好きなんだ。

 僕のほうこそ、ありがとう。

 君と出会えて、本当に幸せだ。今も。そしてこれからも。

 大好きだ。いつまでも、ずっと、ずっと。


「じゃあ、これからもたくさん嘘をつきまーすっ!」

 

 その声に思わず、空から視線を地上に戻す。さっきの女の子が、男の子に向かってにひひと笑いながら、また駆け出して僕の横を通り過ぎる。

 僕はもう一度、笑えた。





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