塔の二王子 ─ ロンドン塔の鍵と蝋編

第1話 鍵束の系統図

王子が消える場所として、これ以上ふさわしい牢はない。

ロンドン塔。鍵は束で管理され、灯りは蝋で数えられ、川は沈黙の搬出口になる。

2105年から遡った俺は、字の書ける書記補助として塔に入った。

証拠は持ち帰れない。だから“生活の数字”で追う。

配膳、巡診、灯油、蝋。夜警の足音。橋の通行料。

王位は紙より先に、灯りの消費で嘘をつく。

——“空想”と笑われても、俺は見た。


霧のにおいが革靴の縫い目にまとわりつく。テムズの水面は鈍い鉛色、塔の白い石は湿って冷たい。中世の朝は金属のにおいがする。

ビヤワード塔の門で名を告げると、槍の石突きが敷石に軽く当たった。中へ。石段を二つ上がり、俺は塔副長の執務室へ通された。


「字は速いのか」と、鎧の肩で光が跳ねる。

ロバート・ブラックンベリー、副長。鍵束の番人。短く刈った髪、痩せた頬。笑わない顔は、不足のない工具のように見える。

「速く、乱れず、真似なく」と俺。

「いい返事だ」


卓の上に重い輪が置かれた。鉄の鍵が十七本。歯の形がどれも違う。輪の革紐は使い込まれ、手の脂で少し黒い。


「これは見せるための鍵だ。本物は別だ。名前と場所を覚えろ。輪の“親”は二つ、門の系統と“内”の系統。

門はミドルトンネルからビヤワードの外に至るまで。内は“王の家”と白塔、宝物庫、兵器庫、礼拝堂。親の持ち替えがあった夜は、必ず何かが動く。覚えておけ」


鍵束の歯先を指でなぞる。

BY(ビヤワード)/MT(ミドル)/ST(聖トマス=水門/通称トレイターズ・ゲート)/BT(ブラッディ)/WT(ホワイト)/KH(キングズ・ハウス)……刻印と擦れが、よく使われる順序を語る。

俺は輪の並びを頭の中の系統図に配置する。親→子、門→内、例外ルートは赤で囲む代わりに、呼吸で印をつけた。吸う/吐く。出る/入る。鍵は呼吸に似ている。止めれば死ぬ。


「今日から三日、記録所に詰めろ。出入りの名簿、蝋燭の支給控、厨房の配膳表、夜警の巡回表、橋番の通行料。見ろ、書け、疑れ」

「疑うのは何を」

「足りないものだ」

副長はそれだけ言って、輪をしまった。


記録所は石壁の一角、窓は小さく、羊皮紙と蝋と油のにおいが層になっている。書記主任のガトリーが俺を見上げ、どうでもいいものを見る目で頷いた。

「算木は使えるか」

「使えます」

「なら蝋からだ。蝋は嘘をつかない。嘘をつくのは人間だ」


蝋燭は二種。**蜂蝋(上質)**は礼拝堂と上位者の部屋、獣脂(獣脂蝋)は衛兵詰所や廊下。台帳は日付/担当/本数/用途。

昨日の欄に、礼拝堂の蜂蝋が通常の倍。理由は書かれていない。

「昨夜、祈りが長かった?」と訊くと、蝋台係の女は肩を竦めた。

「祈りはいつでも長いさ、今はとくに。だが蝋は蝋だよ。足りない時は“祈り”が増える」

言いながら、彼女は指先についた蝋を丸めて布へ押しつけた。蝋は冷えて、すぐ形を忘れる。


次は厨房。パンと肉と薄いエール。配膳表に**子供(PAGE/CHILD)**が二人分、毎朝二皿。果物は週二、蜂蜜小鉢は祝日にだけ。

「王子たちだ」と厨房頭のホプキンス。

「皿は毎度同じか」

「同じ。同じであってほしい」

希望は数字にならない。だから数字だけを覚える。二皿、二杯、小鉢ゼロ。


チャペルに上がると、白塔の石が湿って冷え、音を吸う。聖ジョン礼拝堂。上階から子どもの声が薄く降りた。朗唱。礼拝歌は小さな鐘みたいに響いて、石の肋骨で増幅される。**これが“基準音”**だ。消えた夜を、あとで知るための。

礼拝堂の欄には、蜂蝋二十四。昨夜は四十八。理由は空白。

空白は、紙の上でいちばん重い。


夕刻、水門(聖トマスの塔/トレイターズ・ゲート)の控えに向かう。川が濃い。水番は布で手を拭きながら言った。

「今日は静かだ。静かな日は、誰かが目を伏せてるってことだ」

通行料台帳には、小舟の欄がいくつか空白。印章の押し跡はある。名はない。刻印の輪郭から逆向きに読むと、王家評議会の印が薄い。

紙には、誰が持ってきたかが書かれない。ただ、誰が通れたかだけが残る。


夜警表は、内向きの矢印が多い。普段は外壁沿いに“外”を見て回る巡回が、“内”へ向かう。矢印の頭が“王の家”へ寄っている。

「今は王が二人いる」と老衛兵が笑った。

「お前はどっちの王に仕える?」と俺。

「どっちでも、蝋は減る」

蝋が減れば、夜は長くなる。夜が長くなれば、鍵は重くなる。


夕餉の前、副長が通りかかった。

「書記。塔の医師に挨拶したか」

「まだです」

「しておけ。王子の“健康記録”は最後の正常なログになる」

医師アルジェンティン。細い指、疲れた眼。短い会釈。

「御子らの具合は」と俺。

「飢えさせられてはいない。祈りは多いが」

彼はそこで言葉を途切らせ、視線を白塔の階へ向けた。祈りは蝋を食う。蝋は数字を残す。


初日は基準を集める。蝋/配膳/通行/巡回/巡診。

いまのところ、王子は二人。

皿は二。

礼拝歌は毎夕。

蝋は増え気味。

通行は空白あり。

夜警は内向き。

どれも“戦時”だが、誰も宣言しない戦だ。


——鍵。

日が沈むころ、副長が呼んだ。石の螺旋階段を降り、低い小部屋で、彼は本物の輪を一瞬だけ見せた。

さっきの見本より歯の摩耗が深く、革紐は新しいに取り替えられている。

「**今日は“親の持ち替え”はない。**だが、貸与ならあるだろう。貸与帳は明日、持ち出す。書写はお前だ」

貸与帳。鍵束が“誰の手を通ったか”だけが動く瞬間。命令書がなくても動く仕組み。

「命令は紙じゃなく、輪で出ることがある。覚えておけ」

副長の声は硬く、輪は柔らかく光った。


廊下で、蝋台係の女が俺を呼び止めた。

「蝋の件でね。明晩、“王の家”に蜂蝋を余分に回すよう言われた」

「誰から」

女は肩を竦めた。「印章は見た。名前は聞かない」

印章は名前の代わりだ。名前は疑いの代わりだ。


寝台に横になり、頭の中に系統図を描く。

門の親→ミドル/ビヤワード/水門。

内の親→白塔/王の家/宝物庫/礼拝堂。

親が持ち替わる夜=大きな移動。

親はそのまま、子だけが別の手に行く夜=例外ルート。

例外が続くと、紙の上では何も起きていないのに、実際には何かが終わっている。


二日目。

厨房の配膳は変わらず二皿。

礼拝歌は少し短い。蜂蝋は依然多い。

水門の空白は昨日より一つ増えた。

夜警の矢印は、さらに内向き。

貸与帳はまだ来ない。ガトリー主任は欠伸をして、「今日は“平穏”だ」と言った。紙の上の平穏は、たいてい紙を差し替える前触れだ。


午後、橋番の若いのがひそひそ声で言った。

「昨夜、高位者の印で小舟が一艘、名なしで通った。深夜の潮の転りで入るやつだ」

「どこへ付いた」

「言えない。言っても、俺の名は紙に残らない」

名は残らない。だが蝋は減る。巡回は内へ寄る。鍵束の貸与が遅れているのは、帳簿を今書いているからか、書かないで済ませるつもりか。

どちらも、不自然だ。


夕刻、礼拝堂。

子どもの声がはっきり強い。二人の声。高い/低い。音程は合っていないが、合わないことが子どもだ。蜂蝋が二本、短くなっていた。蝋は歌の長さを知っている。

階を降りる途中、見慣れない顔が白塔の影から出てきた。背が高く、歩みが静か。封蝋の箱を脇に抱え、副長の部屋の方へ。

ガトリーが耳打ちする。「タイレル卿だ。短く来て、短く去る人」

短く来て、短く去る人。例外ルートの形だ。


夜。

副長が貸与帳を持ってきた。

「今夜はまだ白紙だ。だが白紙のまま朝を迎えた夜ほど、危ない夜はない」

白紙は、書いていないのではない。書けないのだ。

「書けない理由は?」と訊くと、副長は一拍置いて、輪を指で叩いた。

「輪が命令する夜だ」


——基準はそろった。

蝋は増え、配膳は二、礼拝歌は聞こえる、通行の空白は増える、巡回は内向き、例外の顔が現れた。

次に起きるのは、数字の断絶だ。配膳が半分になり、礼拝歌が消え、蝋が祈りの名で増え、貸与帳が消し跡をつける。

その前に、鍵束の系統図を仕上げる。輪の親が持ち替わる瞬間を見逃さないために。


寝台で目を閉じる。羊毛の匂いと蝋のにおいが混じる。観測者は祈らない。代わりに、足りないものを数える。

名のない印、白紙の貸与、余分の蝋。

王子が消えるなら、まず数字が消える。

数字が消えた夜のことを、俺は知っている。京で一度、炎の中で。

“空想”と笑われても、俺は見た。

鍵は嘘をつかない。輪を持ち替える人間だけが、嘘をつく。

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