第6話 首実検、不成立

夜がほどけ、灰が薄い雨みたいに降り続く。塀のひびは黒を吸い、指で触れれば粉がつく。門は半ばで焼け落ち、内と外の境が崩れた。

火はまだ低く鳴っているが、音は細かい。燃える音ではなく、崩れる音だ。


最初に駆け込んできたのは火消し、次に町役、少し遅れて具足の少ない兵。彼らは言葉より先に桶を探し、次に名を探し、やがて首を探しはじめる。

「首だ、首を見よ」

声が三度繰り返され、呼応する足が散った。門の敷石の上に、濡れた布が二枚広げられる。受け布だ。布の上に置けるほどの「形」が残っている前提で広げる布だ。


庭の土は熱で波打ち、ところどころに黒い塊が残る。誰かが箸のように二本の枝でその塊をつまみ、布へ移そうとする。塊は途中で砕け、灰になって風に戻った。

「違う」

「それも違う」

違う、と言う声が続く。違うの列は長い。正しい、は来ない。


焼け残った刀の鍔が一枚、柱の根元から拾われた。黒く、歪み、家紋も判別できない。鍔に名は刻まない。刻むのは人間だ。名は誰にでも貼れる。貼れる名を待つ人たちの顔色が、灰の下で変わっていく。


「若殿は——?」

問いは宙に上がる。答える声はない。

庭の隅に倒れた若い者の群れの中に、小袖の模様が辛うじて残るものがある。布は焼けても、色の濃淡が最後に名残りを見せる。そこに膝をついた兵が、ためらって手を引いた。顔を覆う布が焦げ落ち、形は人の輪郭から離れている。人は輪郭のないものを、人と認めない。認めれば、名を貼らねばならない。


門外に、明智方の与力が到着した。二十余。兜は煤で黒く、声は太く乾いている。

「首実検の場、設けよ」

与力はそう告げ、布の上に積み上がった灰と炭化片を見て、ほんのわずか顎を引いた。驚きでも憤りでもない。間に合わなかった者の顔だ。

「……殿の御形は」

誰かが問う。

与力は答えない。答えずに、布の端を片方だけ持ち上げ、灰の山を別の布へ移し替える。布の上で、灰はまた灰になる。


鐘はもう鳴らない。代わりに、笛の短音が遠くで一度だけ。合図ではなく、癖の音だ。

旅の坊主が人混みを縫って近づき、門前に片膝をついた。合掌はしない。灰を一つつまんで、指の腹で潰し、風に放つ。その仕草のあと、彼は与力の耳に短く何か囁いた。与力はうなずかない。うなずかずに、視線だけを一度だけ僧に向け、次に門の奥を見た。僧はもういない。灰の色に紛れて消える衣。


茶屋の女将が肩に桶を担いで現れた。「水を置いていくよ」

誰も礼を言わない。水は必要だが、ここでは飾りだ。俺は女将から目だけで合図を受け、桶の置き場所を示した。

「新吉」

「はい」

「……戻って湯を増やす。人が来る」

女将は背を向ける。背中に灰が乗る。灰は音を立てない。


灰の雨の中、ひとりの若い兵が、焦げた何かを両手で持ち上げた。形は悪いが、ほかよりは固い。歯が見えるか、と誰かが問う。兵は首を振る。

「歯があれば——」

そこで言葉が途切れた。誰も続けない。歯は名の手がかりだ。だが、ここに残るのは、熱の痕だけだ。


「——御簾中は」

別の問いが生まれ、別の沈黙が重なる。問いと沈黙が交互に町を縫い、やがて噂に変わる。

「抜けおった」

「南蛮寺へ」

「堺へ」

同じ口が、三つの行き先を言う。どれも答えで、どれも嘘だ。嘘であってほしいと願う顔と、真であってほしいと祈る顔が、同じに見える時刻だ。


与力が手短に指示を飛ばす。「拾えるものは拾え。金具、印判、笄でもよい。名の痕跡を集めろ」

名は集められるが、首は集められない。集められない首は、やがて紙の上で作られる。作られた首は、遠くへ運ばれ、掲げられ、見られ、疑われる。疑いは剣より速い。


俺は塀のひびから視線を外し、焼け跡の風上へ移動した。熱は少し和らぎ、匂いの層がはっきり分かれる。油の甘さは薄れ、乾いた木の苦みが前に出る。その下に、焼けた布と髪の焦げが細く混じる。温度は落ちたが、判別不能の条件は維持されている。

——これでは、首は出ない。

数字に置き換える。温度、持続時間、酸素の流れ、崩落の段階。いずれも首実検に必要な「原形」を削る方向に働いた。狙って作るのは難しいが、狙っていた者がいたかもしれない。狙っていなかった者にも、有利に働く。


昼近く、堀川の方角から、一団が駆けてくる。旗はない。袋に何かを入れ、口を固く結んでいる。

「首——持参!」

門の手前で誰かが叫ぶ。布が広げられ、中身が見える。

与力は一歩近づき、次の一歩をやめた。

「誰のだ」

「……名は、まだ」

若い兵の目は、自分が持ってきたものを見ない。見ると、名前を自分の口で言わねばならなくなるからだ。

布の上のそれは、火の通りが不揃いだ。片側だけが黒く、片側は赤に近い。歯はない。髷の根元が崩れ、耳の形も失せ、顎の線は途中で消えている。

与力は短く首を振り、布を閉じさせた。

「戻れ」

兵は頷き、袋を抱き直して引き返す。足の重さが増えた。重さは、次の嘘を重くする。


茶屋に一度戻る。女将は湯を増やし、客は増え、言葉は増え、どれも短い。

「殿は抜けた」「いや、焼け死んだ」「なら首を見せよ」「見せられぬ」

俺は湯を注ぎ、銭を受け取り、耳に数字だけを残す。噂の発生源と伝播速度。二条からの伝令に混じる言葉の癖。町役の声に混じるため息のタイミング。

旅の坊主がまた来た。袈裟は灰色に染まり、目の下に影がついている。

「鐘はもう要らない」

坊主は湯を一口飲んで言った。

「合図は消えた。これからは、言葉が合図になる」

「言葉は速い」

「速すぎる」

坊主は代金を置かず、立ち去った。袖の中は空だ。運ぶ言葉を使い切った顔だ。


午後、与力が茶屋に入ってきた。兜を脱がず、湯を所望し、立ったまま飲む。

「你、字は書けるな」

「少し」

与力は短冊を一枚、帳場に置いた。

「触れるな。見よ」

短冊には、走り書きで一文。「御屋形様、本能寺ニ於テ御自害。其御首級、火中ニ失ス」

与力は短冊を回収し、袖に戻した。

「これを町々に回す。——信じる者は少なかろう」

彼の声は乾いていた。乾いた声は、謝罪に似る。

「首が出ねば、誰も信じぬ。首が出ても、信じぬ者はいる。だが、出ねば——」

彼はそこで口をつぐみ、湯飲みを返して出ていった。背の煤が、戸口で風に散った。


夕刻、本能寺の焼け跡に、紙札が数枚打ち付けられた。立入御免、検使待機。誰が打った札かは、札が物語らない。札は命令の顔をして、空気に混ざる。

灰はなお降り、匂いは薄れ、音は細くなっていく。灰の降り方が緩むにつれ、人の声が太くなる。太い声は、やがて命令になり、噂になり、怨みにもなる。

「首はないのだと」

「ならば、殿は生きておられる」

「いや、敵は首を隠したのだ」

三つの声が同時に立ち、三つとも正しい顔をしている。正しさは顔を持ち、顔は速く移動する。


日が落ちかけ、焼け跡の熱がやっと皮膚から離れたころ、俺は塀のひびに最後の一度だけ指を置いた。ひびはもう熱くない。指先に灰が残り、灰の下の皮膚がひりつく。

——条件は整った。

首実検は成立しない。成立しないまま、明日が来る。明日が来れば、それぞれの「確かに」が紙になり、言葉になり、旗になる。旗の向きは、首の向きで決まる。首がなければ、向きは揺れる。揺れれば、崩れる。

俺は茶屋に戻り、湯をかき混ぜ、客の手に渡す。湯気は白く、何も語らない。だが、今日の温度はもう充分だ。

帰れば、数字と匂いと動線だけで書く。政治史と火災工学の間に、太い糸が渡る。糸は見えないが、手触りがある。手触りは、俺の中にしか残らない。


夜、犬が一度だけ吠えた。吠えは短く、深い。

首の話は終わらない。終わらないまま、次の噂がはじまる。

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