第5話 炎上の瞬間
鐘が鳴った。ひと息、遅れて。
その一拍の間に、町全体の息が揃い、ほどける。俺は塀のひびの二歩手前で、肺を半分だけにして、耳を空に上げた。
石が二度、小さく打たれた。偶然のふりをした合図。すぐに——火が入る。
最初の音は小さい。「ぱち」と乾いた種火。油が土の毛細を走り、黒ずんだ筋が一瞬で橙に変わる。塀の向こう、庭の低い草が先に舐められ、続けて柱の根。火は根元を食い、上へは行かないふりを一瞬だけして、次の瞬間、真上に伸びる。梁までは距離がある。だが油は距離を縮める。
小門の内側で人影が滑り、梯子が塀に立つ手応えが伝わる。縄がきしむ。足の運びは迷いがない。上りながら振り向かない足。振り向く余裕がない足。塀越しに、短く押し殺した声がひとつ。「用心——」
次の言葉は、火に呑まれた。
寺の屋根の棟で風が折れ、吹き抜けに吸い込まれる。温度がいきなり変わった。皮膚の上の空気が軽くなり、乾いた舌で撫でられる。ドラフトができた。堂内の高いところに熱がたまり、天井板の裏で空気が丸く膨らむ。その丸が、破れる。
「ごう」
音がひとつ太くなる。空気が燃える音。紙と木と油の混ざった甘い匂いが濃くなる。白かった煙が、灰色、茶、すぐに黒へ。黒は行き場を探し、吹き抜けを見つけて上がる。上がる最中、隙間から吐き戻される黒が俺の頬に触れ、視界を薄く染めた。
塀の隙間から、堂内の白い障子が一瞬、影を映した。人が二人。片方は細い。片方は若い。若い者が刀を構え、細い者のそばに膝を置く。障子が熱で波打ち、影も蛸のように揺れる。声が飛ぶ。
「御屋形——」
最後まで聞こえない。熱で空気が歪み、音が波になる。障子紙が先に焦げ、四角い火の窓がいくつもでき、そこから一度に炎が吐き出された。畳が鳴る。畳の鳴きは短い。芯まで乾いている。
庭側の廊が、先に落ちた。柱が一本、膝をつくみたいに曲がり、梁がひと呼吸遅れて折れる。折れた梁の先が、障子の桟に引っかかったまま、燃えながら止まった。その瞬間だけ、堂内の影が形になった。座した人影。刀の閃き。若い者の肩がわずかに揺れ、刃が一度、止まる。介錯が、遅れた。
炎が追いつき、影は輪郭を失った。
「引け! 退け!」
外側から怒号。塀越しに複数の足音がぶつかり、梯子が揺れる。上にいた者が飛び降り、砂が重い音で吐いた。誰かが咳き込み、誰かが吐き、誰かが黙る。油の筋はもう燃え尽き、今は木の呼吸が燃えている。木が吐く煙は、甘くなく、少し苦い。目に沁みる。
鐘が二打、三打。鐘の音はもう合図ではなく、ただの重りだ。音が落ちるたび、火が持ち上がる。北の棟に沿って火が走り、風が西に折れた瞬間、屋根の一部がはらりと落ちた。中の熱が外に解放され、炎が一段低くなった。だが低さは錯覚で、熱は増している。黒い煙の縁に、赤い粉がちらつく。細かい炭化片。細かい炭は、高温の証拠だ。
塀の向こうで、若い声が一瞬だけ高く上がった。「御屋形様——」
続きはない。声は火に平らに伸ばされ、空に吸われる。俺は耳の中の鼓膜を指で押さえたい衝動を抑える。触れない。記録は皮膚の下に置く。
門前の石畳に、三人が駆け込んできた。槍の穂先が低い。誰の命令か、合図かもいらないまま、彼らは門の戸板に肩をぶつけ、押し開けた。熱は壁のように外へ出てきて、三人を押し返す。押し返された体が地に跳ね、息が抜ける音がした。ひとりが立ち上がりかけ、膝で崩れた。顔を上げたその視線に、燃える堂内の何かが映り、焦点が合わなくなる。高温を見る目は、現実を拒む。
「首——!」
誰かが言った。短く、切羽詰まった声。続けて別の声が怒鳴る。「まだだ、入るな。落つぞ!」
屋根裏の骨が悲鳴を上げる。乾いた木の筋が裂ける音は、楽器に似ている。楽はないが、規則がある。その規則で、次にどこが落ちるかがわかる。わかるが、止められない。
塀のひびに顔を寄せ、俺は数えた。障子が焼け抜けるまで——十。梁の結びが熱で緩むまで——十五。畳の芯が赤に変わるまで——二十。
数字は慰めではない。だが、数字は裏切らない。俺が持ち帰れるのは数字と匂いだけだ。
庭の片隅で、笠を持たない坊主が一度だけ立ち止まり、額に手を当てた。合掌ではない。陽を避けるしぐさに似て、目を庇う。彼は一歩だけ堂に向かおうとしたが、足を止め、背を向けた。僧は祈らない。観測者も祈らない。彼は誰かに合図を送り、塀伝いに消えた。
「水! 水を——!」
誰かが叫ぶ。だが水は飾りだ。桶は重く、距離は長く、火は軽い。油の筋はもう役目を終え、木が自分で燃える。燃えるというより、消えていく。熱がものの名前を奪っていく。
一度、大きく空気が抜けた。堂の内側で、どこかが落ち、空が見えたのだ。そこから風が逆流し、火が吸い込まれて、また吐き出された。吐き出した火が門の外へ伸び、槍の柄に舐めついた。若い兵の手の毛が焦げる匂いが、瞬間だけ風下に届いた。兵は無言で槍を捨て、両手を振った。痛みは声より早い。
やがて、最初の「ごう」が少しだけ落ち着き、音が細かく割れた。細かく割れる火は、終わりではない。変化だ。大きな燃えものが、細かな燃えものへ移る過程。黒い煙が灰へと重くなって落ち、灰の雨が静かに降る。灰は濡れない。指に触れると、すぐに消える。
塀の向こうで、誰かが低く言った。「——是非もなし」
言葉は、火の音に千切れた。言ったのが誰かはわからない。だが、その言葉は場に似合いすぎるほど似合って、空に貼りついた。
次の瞬間、堂の奥で何かが崩れ、炎が短く舞い上がった。影はもう見えない。座していた輪郭も、若い肩も、熱に平らに伸ばされ、灰の下に沈んだ。
門のところで、指揮の声が変わる。「引け。落ち着け。首は——朝だ」
朝には、形はもう残らない。形が残らなければ、名を呼ぶほかに確かめようがない。名は、誰にでも貼れる。
光秀の側に必要なのは、首だ。だが、今ここにあるのは、熱と灰だけ。熱は握れず、灰は掬えない。
俺は塀から身を離し、少しだけ後ずさった。眉の上の毛が焦げ、皮膚が薄く痛む。痛みは記憶の杭になる。痛みは消えない。
風向きが変わり、黒い煙が通りのほうへ低く流れた。町の人々が集まり、遠巻きに見ている。誰も声を出さない。遠くで犬が二度、短く吠えた。吠えは、終わりの合図より、次の始まりの合図に似ている。
炎は、やがて音を減らし、灰の音を増やしていく。灰の音は、柔らかい雨の音に似ている。雨は降っていない。乾いた町に、灰だけが降る。
俺は数えるのをやめた。十分、十五分、二十分——数字はもう充分だ。十分は証言にならず、匂いは論文にならない。だが俺は見た。燃え方、崩れ方、遺骸が判別不能になる温度の持続。首実検が不可能になる条件。
“空想”と笑われても、俺は見た。
ここで拾える首はない。拾えないまま朝になり、誰かが「確かに」と言う。確かに、の中身は空だ。空でも、歴史は進む。
俺は背を向け、煙の薄い道を選ぶ。茶屋へ戻り、湯を沸かす。湯気は白く、匂いは何も語らない。だが俺の皮膚は、もう全てを記録している。
観測者は祈らない。息を止めることだけは、またできる。次は、首の話になる。首がないという事実と、首があるという必要の話だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます