第42話「静かな肯定」

雪が一瞬だけ止んだように思えた。谷の向こうで風が引き、世界が静寂で満たされる。あの落下の音は、遠くで小石が割れるように聞こえた――それが現実の合図なのか、私の頭の中の幻なのか、区別がつかない。




 膝が折れる。私はそのまま雪の縁にへたり込み、両手で顔を覆った。指の隙間から見える景色は、すべてが遠い。マルタが落ちていく姿。雪が粉雪のベールのように舞い、彼女の叫びが空に溶ける。私が押した。私の手が、彼女の体を押しやった。




 「…ごめん…なさい」それが最初に出た言葉だった。繰り返しても音が薄く、響かない。胸の奥が凍りつき、体の震えは止まらない。目の奥が焼けるように熱い。




 手が、誰かの手が私の肩に触れた。強く、確かな重み。振り向くと、イヴァがいた。彼女の息遣いは整っていて、雪に混じった髪の房が氷の粒を落としている。目は静かで、怒りでもなく哀しみでもない。むしろ、何かを決めた者の落ち着きがあった。




 「ティナ」イヴァは私の名前を呼び、私の背中をぎゅっと抱きしめた。抱くというより、取り込むような感触。温かさと硬さが同時に伝わる。手袋越しの掌から、蝋のような甘い匂いがした。私はその匂いに、胸がふるえた。




 「どうして……」呟く声は、私自身に向けられている問いでもあった。涙が一粒、凍りつく前に頬を伝って落ちた。




 次の瞬間、不思議な笑いが喉から漏れた。嗚咽とその笑いが同時に出る。私は自分でも驚いて、小さく、切羽詰まった笑いを繰り返す──


「あはは、馬鹿みたい、私、押したんだよ、私が押したんだよね、うわはは」


 声は掠れて、笑いはすぐに涙に戻る。笑って涙をこぼし、また笑う。世界がぐらついて、私の頭の中で何かが崩れて音を立てる。




 その様子をイヴァは黙って見ていた。抱きしめ方は緩めず、ただ私の背中を撫でるように掌を動かした。私の笑いはだんだん量を失い、震えに変わっていった。自分が少しおかしくなるのを感じながらも、どこかでそれが救いの兆候にも思えた。感情が音を立てて混ざり合う。




 そのときだった。イヴァが私の頬に手を当て、ゆっくりと私の顔をのぞき込んだ。黒い瞳が揺れている。彼女はかすれた声で言った。




 「……どうして、私のために?」




 その言葉は、まるで吐息のように小さく、それでいて胸の奥に突き刺さった。イヴァの指先が微かに震えている。普段の彼女からは考えられない、弱さを帯びた響きだった。




 「どうして私なんかのために、あんなことを……」イヴァは言葉を探すように続ける。「あなたは何も背負わなくていいのに」




 私は唇を噛んだ。自分の喉の奥から、笑いとも嗚咽ともつかない声が漏れる。


「だって、あなたを失いたくなかったから」言葉が形になるまでに時間がかかった。


「ただ、それだけだったの。あなたがいなくなるくらいなら、私が罪を背負う方がいいと思った」




 イヴァは目を伏せた。頬に流れた髪の白さが雪明かりに淡く光る。彼女は私の肩を引き寄せ、囁くように言った。


「そんなこと、誰にもしてもらったことがない」吐息が頬に触れる。「怖いくらいに、うれしいの」




 私はイヴァの胸に額を預け、震えながら笑った。涙が彼女の服を濡らす。笑いと涙が入り混じって、自分の声が自分のものではないように感じる。




 イヴァはその頭を抱きしめながら、もう一度、かすれた声で繰り返した。


「どうして私のために……」


 その声には、責めでも拒絶でもない、ただ純粋な驚きと、壊れやすい喜びが混じっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る