第37話「目醒め」

目が覚めた。世界はゆっくりと歯車を回すように戻ってくる。


 最初に感じたのは、重力と布の摩擦、そして胸に巻かれた何かの圧だった。目を開けると、室内の光が薄く差していた。小屋の天井は煤で黒ずみ、柱には昨日の煙が薄く残っている。




 体が言うことをきかない。動かそうとすると、全身に鉛が詰まっているように重い。手を確かめると、指先は包帯で固められていた。包帯は乾き切っていないが、かすかに暖かさが残っている。唇の端には金属の味がして、思い出すのは断片的な光景だけだ——殴り合いのざわめき、イヴァの輪郭、そして雪の白さが目に焼き付いたこと。




 「……ここは?」声は砂を噛むように枯れていた。答えは返ってこない。ただ、窓の隙間から入る寒色の光がゆっくり揺れるだけだ。




 体を起こそうとすると、腹の奥で疼きが走った。誰かが無理に抱えて運んだのだろうか。記憶の切れ端が手繰られる――手首が掴まれた感触、張りつめた呼吸、倒れる直前に見たイヴァの黒い瞳。はっきりしているのは、それが怒りや悲しみを含んだ光だったことだけだ。


 でも、なぜ私がここにいるのか、なぜ彼女がいま側にいないのか、その筋道はまだ見えない。




 周囲を見回す。粗末な棚の上に小さな鍋、割れた陶器の片、そしてテーブルの隅には蝋の白い塊が置かれていた。指先に小さな蝋の削りかすが付いているのを見て、胸の奥がざわつく。イヴァの匂いがそこかしこに残っている——獣皮と煙と、ほんのり甘い蝋の香り。あの匂いを嗅ぐと、嬉しさと不安が同時に押し寄せる。




 ルークのことを思い出す。彼の顔が血で濡れていた記憶、マルタが祈って扉の雪へ消えていったこと。胸の奥が冷たくなっていく。ルークは――もう、いない。言葉にするのが怖くて、唇が震えた。




 イヴァはどこにいるのだろう。隣にいてくれれば安心できるのに。そう思う反面、昨夜の言い合いと、あの日の殴り合いが頭をよぎり、胸の中に小さな石が落ちたように重い。手の包帯を押さえながら、ティナは自分の足を床に下ろそうとした。脚はふらつき、膝を抱え込むようにしてやっと座る。




 扉の傍らに立ち、戸を引くと、外の光が刺すように明るい。吹きだまりにしばらく覆われていたのか、雪は小屋の周囲に靄のように積もっている。外気が肺に入った瞬間、冷たさが痛みに変わる。鼓動が早くなり、視界の端で揺れる景色を追う。




 小屋の前に出ると、視線は自然と地面に落ちた。雪の表面には、幾つかの跡がある。古い足跡は風で半分消え、浅い溝だけを残している。新しい跡は一人分、外へ続いていた。踏み固められた踵の形が淡く残り、風がその縁を撫でている。二人分ではない。誰のものかを確かめようとすると、指先が震えた。




 空が広い。白が深く、遠くの山の輪郭が霞んで見える。ティナは膝の力を確かめながら立ち上がり、ふらつきながら足を踏み出す。体は思うように動かないが、心は確かに前を向いていた。何かを確かめなければならない、何かがまだ説明を許してくれない——それが胸の奥で叫んでいる。




 小さな吐息を漏らし、ティナはゆっくりと雪原へ足を入れた。冷たい粉が靴を掬い、陽光がまぶたに刺さる。彼女の視線は、風に消されかけた足跡の先へと向かう。

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