第36話「白い背中」

雪に目が焼ける。視界の端がいつもより鋭く痛み、ぼんやりとした白がすべてを覆っていた。身体がまだ自分のものにならない。腕も脚も、糸がついた操り人形みたいにぎこちなく動く。息をするたび、肺の奥に小さな針が刺さるように痛む。声を出そうとしても、唇が重く、言葉は雪の中に吸い込まれていく。


 それでも、どうにか一つだけ確かなものがあった――温度。肩甲骨のあたりに、荒く確かな熱が当たっている。引かれる感触。足が雪面を滑って、重いものを運ぶ時のぐらりとした揺れ。誰かの背中のかたちが、視界のなかに白く揺れている。


 ――イヴァ、だ。


 その名が脳裏をかすめた瞬間、胸の奥で何かがぴくりと動いた。名前を呼ぼうとするけれど、声は出ない。代わりに、彼女の息遣いが耳に届く。荒く、でも確実なリズム。雪の匂いに混じって、いつも嗅いだことのある獣皮の匂いがした。イヴァの匂いだ。火と煙と、少しだけ鉄。そして、どこかに蝋の甘さが残っている。


 彼女の髪が風にたなびく。白く、雪と溶け合って見分けがつかない。背中にかかる毛皮の縁が、私の頬を掻くたびに、冷たさと温もりが交互に押し寄せた。どうして今、私を運んでいるのか。どこへ連れて行くのか。問いはあるのに、頭は霧の中でそれを組み立てられない。


 断片が浮かぶ。ルークの顔が血でくしゃくしゃになっている映像。マルタが祈る声。あの夜の叫び。私が怒鳴ったこと。彼女と殴り合いになったこと。拳を受けて、世界が針のように散ったこと。――その先が切れている。切断された映画のフィルムのように、ぶつ切りのイメージだけが浮かんでは消える。


 「ティナ」


 低い声が耳元で囁かれる。イヴァの声だ。名前の呼び方に、いつものからかいは混じっていない。少しだけ、柔らかい。胸が静かに締めつけられる。


 私は目を開けようとする。瞼の裏に雪の光が踊り、薄いカーテンのように揺れる。視線の先に、イヴァの側顔が掠める。凍てついた空気の中で、その横顔は一瞬、鋭く彫られた石像のように見えた。だが瞳の中には何か、生きものの光がある。


 イヴァの手が私の肩に回る。指先が不器用にぎゅっと掴む。手袋越しの圧は温かく、強い。守られているという感覚が、鋭い不安と一緒に胸に波打った。


 「ゆっくり、目を閉じて」彼女は言う。言葉は短い。雪の刃のような寒さの中で、それはいつもよりずっと優しい命令に聞こえた。私の混乱した心は、その一語で少しだけ整理される。彼女は私を救っているのだろうか。あるいは、別の何かから守っているのだろうか。


 断片的に過去が流れてくる。幼い日の記憶。母がくれたぬくもり。村の薬草小屋での朝。イヴァが最初に現れたときのこと――白い髪、冷たい手、無言の導き。彼女はいつも、私をからかい、私を試し、同時に守ってくれた。母とは違う種類の保護だ。母は温度であり安らぎであり、イヴァはそれを形に残そうとする者だった。


 ――だが今、私を抱くその手が、どんな思いで動いているのかはわからない。


 雪原を行く音がする。足音は重く、時折ぴきりと軋む。何かが引きずられるような音も混じる。私はそれを理解しようとして、頭を動かすが、身体は思うように言うことを聞かない。視界が濁り、世界がまた遠ざかる。


 「もう少しだ。頑張って」イヴァが短く言う。言葉の端に苛立ちと優しさが混じる。私はそれに応えようと、薄く唇を開く。声帯が砂を噛むようで、かすれた音が漏れる。


 小さな断続的な光景が私の中を通る――ティナ、薬草、手のひらを火で焼いた夜、イヴァの無表情な笑い、蝋の匂い。どれも鮮やかで、どれも氷片のように痛い。


 私の胸の奥で、何かがひび割れるように響く。


 向いている気持ちは同じはずなのに、こんなにも愛しているのに

 ――あぁ……私たちは、分かり合えなとわかっていたはずなのに


 その言葉が、頭のどこかで震えた。悲しみと怒りと愛が混ざり合って、形を失っていく。イヴァの背中が白く揺れ、私のまぶたが重くなる。温もりが最後に差し込む。イヴァの鼓動が、遠い子守歌のように聞こえる。


 まぶたがゆっくりと閉じていく。世界は再び白に溶け、耳鳴りが遠ざかる。イヴァの温もりだけが、最後に残った。

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