第34話「白い記憶」
目を開けると、雪原は青白く光っていた。
ティナを小屋の床に横たえたあと、イヴァは窓辺に背を預ける。
火のはぜる音が遠くに聞こえる。
胸の奥に、冷たい波がひたひたと打ち寄せてくる。
彼女は深く息を吸い、吐き、そして記憶の底に潜っていった。
——あの村に拾われた日のことを、彼女はよく覚えている。
白い髪の小さな子どもだった自分を、誰かが抱き上げる腕のぬくもり。
粗い毛布、焚き火の匂い。
人々は“可哀そうな孤児”と言った。
だがイヴァにとって、それは奇妙な感覚だった。
彼女には、母がいたのだから。
母は森の奥に住む白い女だった。
長い毛を持つ美しい狼に似ていて、夜には人の姿に戻り、イヴァを胸に抱いた。
名前を囁く声、髪を梳く指先。
冷たい夜気のなかで、その体温は燭台の光のように揺れていた。
イヴァはあの時間を、ただ静かに、当たり前のものとして受け取っていた。
けれどある日、その光景は唐突に終わった。
森の奥、雪の積もった小さな泉のそば。
狩人たちの足音、矢の飛ぶ音。
母は倒れ、雪に赤を広げた。
白い毛が血で重くなり、体はぴくりとも動かなくなった。
イヴァはその体を抱いた。
冷たくなっていく感触が腕に伝わる。
悲しい、という言葉はそのとき浮かばなかった。
ただ、信じられなかった。
あの柔らかさ、あの美しさが、こんな形で壊れてしまうことが理解できなかった。
——なぜ誰も、止めなかったのか。
——なぜあのままの形で、残しておけないのか。
その瞬間から、イヴァの内側に一つの裂け目が生まれた。
失われることの恐怖は感じなかった。
感じたのは、壊れて消えていくことへの拒絶だった。
母の姿がそのまま残せるのなら、世界の冷たさを受け入れられる気がした。
村に連れられ、温かな手を差し伸べられても、胸の奥の裂け目は埋まらなかった。
笑顔を返しながら、心のどこかでいつも考えていた。
——壊れる前に、閉じ込める方法を探さなければ。
蝋、箱、保存。
彼女の「手仕事」は、その頃から始まっていた。
乾かした花、血の付いた布きれ、小さな骨。
どれも“変わらない形”で残したかった。
やがて、人の温もりも、同じように保存できるのではないかと考えるようになった。
愛するものが壊れて消える前に、自分の形に収めておけるのではないか、と。
イヴァは窓の外の雪を見つめる。
ティナの髪の匂いがまだ指に残っている。
あの時の母と同じように、ティナの温かさも、いつか壊れて消えてしまうのだろうか。
胸の奥で何かが疼く。
だがその疼きが、愛なのか、別のものなのか、イヴァにはもう判別がつかなかった。
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