第33話「交戦」
小屋の中の空気が、冷え切ってしまった。
外の雪が窓を叩くたびに、薄い光が揺れる。
二人は向かい合って座り、火のはぜる音だけが時折会話の代わりをしていたが、どちらも言葉を選んでいるうちに、針のように鋭くなっていった。
「もう、黙ってないで言いなさい」
ティナがやっと口を切った。
手の中の布がぎゅっと皺になる。
目の前のイヴァを、彼女はじっと見据えていた。
あの夜から積もった不安が、声になって溢れ出る。
「何を?」
イヴァは穏やかに返す。
微笑みが気味悪いほどに平らで、火の光に彼女の白い髪が淡く煌めいた。
「蝋の塊を、保管箱を、あなたの爪に付いた赤を——全部説明して」
ティナの声は震えているが、言葉は切れ味を失っていない。
「ルークの傷と、あなたの手つきと、繋がらない理由を聞かせて」
イヴァはゆっくりと立ち上がり、棚の方へ歩いていった。
無言で、しかし確信に満ちた足取りだ。
棚の影から、かすかに蝋の匂いが漂ってくる。
ティナの胸が締め付けられる。
思考の回路の中で、資料の言葉が薄く鳴る――保存、死蝋、変わらぬ形で留めたい衝動。
「ティナ」
イヴァは棚に手を触れ、掌を滑らせるようにして言った。
「人は思い出を形にしたがる。
壊れるものを、そのままにしておけない。
私はただ、形にしておきたかっただけよ」
「形にしておきたかっただけ?」
ティナの笑いは嗄れていた。
「誰のために? 誰を止めるために?」
言葉の端に、かつてマルタが言った「浄化」という響きが重なる。
ティナの中の群衆の声が、だんだん大きくなる。
誰かを裁きたいという衝動ではない。
彼女はただ、安定した答えを求めていたのだ。
「あなたは、自分が『正しい』と思いたいだけだ」
イヴァが言い放つ。
声に怒りの色が混じった。
「私を疑うのは簡単。
誰かを怪物にしたほうが楽だから」
「楽なんて思ってない!」
ティナは立ち上がる。
足元の雪がかすかに軋む。
怒りの熱で手が震える。
「ルークはもういないのよ、イヴァ。何が正当化できるって言うの?」
イヴァは一瞬だけ顔を強張らせ、それからゆっくりと息を吐いた。
「正当化なんて、最初から考えてない」
彼女の声は小さく、だが確信的だった。
「あなたに分かるわけがない。
あなたは傷を縫うことでしか救えない。
でも私は――私は形に残すことでしか救えないのよ」
その言葉は、ティナの怒りを尖らせた。
彼女は棚に手を伸ばし、あの小箱を掴もうとした。
箱の蓋には先日見た印があった。
指先が触れる寸前、イヴァが動いた。
素早く、確実に。
彼女の手がティナの手首を掴み、指は冷たく蝋のように滑った。
「放して」
ティナは振りほどこうとする。
二人の手が絡まり、力が入る。
イヴァの瞳が一瞬、狂おしいほど鋭く光った。
昔見た「栄光の手」のことを思い出すような、その所作。
ティナの中で何かが切れていく。
「何をするつもり?」
イヴァが低く囁く。
唇の端に、小さな笑みが浮かぶ。
だがその笑みの後ろには、想像できない深さがある。
言葉はもう届かない。
ティナは声をあげ、棚から箱を引き寄せようとした。
引き合う力が一瞬強まり、次いでイヴァの腕がぐっと力を籠められた。
彼女の掌の硬さが、骨に伝わる。
頭の片隅で、鈍い衝撃が走った。
次に意識があるとき、ティナは世界が回っているのを感じた。
視界の縁が滲み、火の光が断続的に点滅する。
痛みがこめかみを穿ち、口の中に金属の味がする。
声が遠く、誰かの動く重い息が近づいた。
「ティナ、静かにしなさい」
誰かの声が言ったような気がした。
だがそれがイヴァの声なのか、別のものなのか、判断がつかない。
雪の外では遠く、軋むような音が続いている。
足跡か、あるいは何かが引きずられる音――それは確かに存在したが、誰のものかは見定められない。
胸の中の鼓動が、だんだん遠くなる。
口元に残る温度が消え、呼吸が重くなっていく。
ティナは最後に、棚の奥でちらりと見えた蝋の白さと、イヴァの横顔の輪郭を掴もうとしたが、それも指の中で崩れていった。
世界はゆっくりと、白に溶けていった。
ティナの意識は沈み、暗闇が深く広がっていった。
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