第32話「怒りの雪」
小屋の外は、朝から細かい雪が降り続いていた。
風はまだ弱いが、積もる速度は速い。
二人で組んだ風よけの壁がすでに半分埋まりかけている。
ティナは焚き火の火をいじりながら、視線だけでイヴァを追った。
マルタはまだ戻らない。雪原のどこかに消えたままだ。
「……ルークのこと、考えてる?」
イヴァが不意に言う。
ティナは手を止め、かすかに頷く。
「あの夜のこと、まだ整理がつかない」
イヴァは毛皮の縁を直しながら、わずかに口元を歪める。
「仕方なかったのよ。あの状態じゃ、誰だって……」
「本当に、仕方なかったの?」
ティナの声が鋭くなる。
「あの傷、獣の噛み跡にしては整いすぎてた。あなたの爪に——」
イヴァが顔を上げた。
黒い瞳が一瞬だけ光を失う。
「疑ってるのね、私を」
「疑ってる、っていうか……確かめたいの」
ティナは必死に声を抑える。
「マルタもいないし、私たち二人だけでこれから山を越えることになるかもしれない。
だから、ちゃんと……」
イヴァは小さく息を吐き、焚き火の明かりから身を引いた。
「そんな顔をしないで。私が何をしたって言うの?」
「わからない。でも、あのときあなたの手が血で赤かった。
偶然だって言えるの?」
沈黙。
焚き火がぱち、と爆ぜる音だけが響く。
イヴァはその音をかき消すように、少し強い声を出した。
「生き残るためにやったことを、あなたは全部裁けるの?」
ティナは思わず立ち上がり、イヴァに近づいた。
「裁きたいわけじゃない。ただ、私は——」
「ただ、怖いだけでしょ。
私が何者なのか、何を隠してるのか。知ってしまったら、自分まで変わるんじゃないかって」
ティナは息を呑む。
心臓が音を立て、喉が乾く。
「……違う。私は、あなたを守りたいと思ってる。
でも同時に……怖いの」
イヴァの口元に笑みが浮かぶが、その笑みは冷たい。
「守る? あなたが私を?」
「そんな言い方しないで……」
ティナは手を伸ばしかけて止める。
外の風が強まり、小屋の板壁を震わせた。
粉雪がすき間から吹き込み、二人の髪を白くする。
イヴァは一歩、ティナに近づいた。
「あなたは、どこまで踏み込むつもり?」
ティナは後ずさりしながら、目をそらさない。
「あなたこそ、どこまで隠すつもり?」
その瞬間、イヴァの手がティナの肩に触れた。
押すでもなく、掴むでもなく、ただそこに置かれた手。
しかし、火のように熱い緊張が走る。
ティナの指先が震え、反射的にイヴァの手首を払う。
バチン、と乾いた音が狭い小屋に響いた。
ふたりは息を呑んで、互いの手元と顔を見合った。
「……やめよう、今は」
ティナがかろうじて声を絞り出す。
「こんなふうに言い合ってても、何にもならない」
イヴァは少しの間、目を伏せてから、低く言った。
「あなたがそう言うなら、今は」
火がまた爆ぜる。
外では雪が吹きつけ、白い世界がさらに深くなる。
その白の底で、二人の心は同じ方向に傾きながらも、確実にずれ始めていた。
不穏な予感が、冷たい空気の中にひっそりと滲んでいる。
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