第26話「行方」

小屋の中には、吹雪の名残を連れ込んだような白い息が充満していた。

外から運び込まれたルークを、ティナは毛皮の上に横たえ、血に濡れた衣服を手早く裂いて剥がす。

肩から腹へと続く深い噛み跡は、まるで巨大な獣に引き裂かれたようで、露出した筋肉が紫に変色している。

押し当てた布はすぐに真っ赤になり、床に落ちる雫が雪解け水のように広がった。


「……ルーク、しっかりして」


 ティナは震える声で呼びかける。

だが彼の唇は硬直し、呼吸は砂利を噛むように断続的だ。

握った手の感触が、刻一刻と薄れていくのがわかる。


 マルタは祈祷袋から護符を取り出し、焚き火のそばに膝をついた。

目を閉じ、低い声で聖句を唱える。

イヴァは無言のまま壁際に立ち、濡れた外套を脱いで掛け直していた。

雪に消えた足跡のように、全員の視線がばらばらだ。


「白い……影が……」


 掠れた声が、ルークの喉から洩れた。

ティナは耳を近づけるが、それ以上の言葉は聞こえない。

血の泡がひとつ、彼の唇からこぼれ落ちた。


「いや、まだ……」


 ティナは止血のための布を替えようとするが、手が震えてうまく結べない。


「お願い、まだ逝かないで」


 ルークは小さく痙攣し、吐息とともに目を閉じた。

胸の上下が止まり、沈黙が訪れる。

ティナは息を呑み、包帯の端を握ったまま動けなくなった。


 マルタが祈りを終え、立ち上がる。


「魂がさまよわぬよう、浄化の儀式をせねばなりません。この山で死ぬことは……放っておけない」


「この天候で一人で行くの?」


 ティナはかすれ声で問いかける。


「これは私の務めです」


 マルタは揺るがぬ口調で答え、祈祷道具を背に掛けた。

木箱に護符と松明を詰め込み、外套のフードを深くかぶる。


 イヴァが短く言った。


「危険すぎるわ、マルタ。戻ってこれないかもしれない」


 マルタは目を伏せ、焚き火の明かりを一度だけ見た。


「必ず戻る」


 とだけ言い残し、扉を押し開ける。

吹き込んだ雪風が火を揺らし、彼女の白い装束をあっという間に包み隠す。

ドアが閉じると、外の音だけが残った。


 残されたティナは、ルークの顔に布をかけた。

血の匂いが鼻を刺し、指先が冷たくなる。

床の赤いしみは広がったまま消えず、焚き火の光がそれを黒く映す。

胸の奥で、ざわりと何かが膨らんでいく。


「……マルタ、無事に戻れるのかな」


 ティナは小さくつぶやく。


 イヴァは焚き火の枝を組み直しながら、ちらりと彼女を見た。


「待つしかないわ」


 その声はいつも通り冷静で、逆に胸の不安を増幅させた。

外から風が唸り、小屋の板壁を叩く音が、遠くの何かの咆哮のように響く。

秩序の象徴だったマルタがいないことで、ここにいる二人だけの世界が、急に心細いものに変わってしまった。


 ティナは焚き火に目を落とし、胸の奥の波を押し殺す。

白い影、噛み跡、そしてイヴァの横顔が、混ざり合って離れない。

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