第20話「雪崩れの前触れ」
夜の名残をかすかに残した朝の谷は、異様な静けさに包まれていた。
空気が、いつもより重い。
雪面の奥から、かすかな地鳴りのような音が響いてくる。
ティナは手袋越しに杖を握り直した。息を吸うたび、冷たい金属のような匂いが鼻を刺す。
「……音がする」
小さくつぶやくと、前を歩いていたルークが振り返った。
「分かってる。風が変わってきた」
彼の声は低く、いつもの豪放さが消えている。
マルタが祈祷袋を胸に当て、ぎゅっと目を閉じた。
「悪い兆しです。神の沈黙の前触れです」
「黙ってろ」ルークが短く返す。だがその目は険しいままだった。
谷の狭い道を抜けるとき、頭上からぱらぱらと雪が落ちてきた。
ひとひら、ふたひら――ではなく、細かい粒が連続して落ちる。
「離れるな!」ルークが声を張った。
ティナは反射的にイヴァの腕をつかむ。イヴァはその手を軽く握り返すだけで、顔は上を向いたままだった。
次の瞬間、地鳴りがぐっと大きくなった。
雪面がゆっくりと波打つように動く。白い壁が崩れ落ちる前触れ――小さな雪崩が始まろうとしていた。
「右の岩陰へ! 今すぐ!」
ルークの叫びに、ティナはイヴァとマルタを引っ張り、言われた方向へ走る。
足元の雪がずるずると滑り、膝まで埋まった。息が白くちぎれる。
かろうじて岩陰に飛び込むと、頭上を雪の塊がざざっと滑り落ちていった。
白い粉が舞い、視界が真っ白に閉ざされる。耳の奥がじんじんと痛む。
やがて音が収まり、世界がゆっくりと元の形を取り戻した。
ティナは荒い息をつきながら、イヴァの手を放す。彼女は無言のまま立っていた。
「……危なかったな」
ルークが雪を払いながら言った。額に薄い汗が浮かんでいる。
マルタは祈祷袋を胸に押し当て、まだ何かを唱えていた。
ティナは口を開きかけて、言葉が出ないままルークを見た。
「もっと早く気づけたんじゃないの?、猟師なんだから!」
マルタが突然、怒りを含んだ声を放つ。
ルークが振り向く。
「おまえ、俺に責任押しつける気か?」
「神は――」
「神は何もしちゃくれねぇ!」
谷に二人の声が反響する。白い雪面に、黒い影が二つ、対峙するように揺れた。
ティナは胸が締めつけられるのを感じながら、視線だけイヴァに向ける。
イヴァはしばらく二人を見ていたが、やがて淡々と口を開いた。
「どちらの責任でもないよ」
その声は、雪よりも冷たかった。
「自然は誰のせいでもなく、ただ崩れる――そのことを忘れないほうがいい」
ルークが一瞬、言葉を失う。マルタも祈祷袋を握ったまま黙った。
谷の風が吹き抜け、四人の髪を揺らす。
ティナはイヴァの横顔を見つめた。
焚き火の赤ではなく、ただ白い光の中で見るその横顔は、どこか遠くのもののようだった。
胸の奥に、名もないざらついた感情が芽生えかける。
だが今は、ただ呼吸を整えることしかできなかった。
風が再び唸り、雪面を撫でていく。
まるで、次の崩れを予告するように。
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