第19話「凍える夜の話」
何度目かの夜。
山の裾野の小さな岩陰で、焚き火がぱちぱちと音を立てていた。
白い雪面の真ん中にだけ、赤い輪が浮かんでいるようで、不思議なほど心細い。
ルークが火のそばに腰を下ろし、手袋を外した。
手の甲にはいくつもの古い傷跡がある。
「昔な、獣にやられたことがある」
彼は火に照らされた横顔のまま、低くつぶやいた。
ティナは思わず身を乗り出す。
「どんな獣だったの?」
ルークは少し考えるように眉を寄せた。
「覚えてるような、覚えてないような……でかかった。毛は白だったか、黒だったか……牙は、人の腕くらい太かった気がする」
曖昧な言い方なのに、その声には妙な生々しさがあった。
「左腕を持ってかれそうになってな。血が止まらなくて……あの時は、本当に死ぬと思った」
マルタが祈祷袋を握りしめ、低く祈りの言葉を唱える。
「恐怖は神が与える試練です。人の記憶を曖昧にするのも、神の慈悲……忘れさせてくださるのです」
その言葉は、焚き火の煙のように夜空に溶けていった。
ティナは小さく息を吸い、焚き火越しにルークの腕を見た。
「その時、どんな処置をしたの?」
「……布を巻いた。仲間が鉄を火で熱して、焼いた。痛みで気絶した」
「焼灼止血……でも、山の中じゃそれしかないわね」
ティナの声は、無意識のうちに薬師のものになっていた。
「焼いたあと、何か薬草を使った?」
「……覚えてねぇな。とにかく、痛みだけが残ってる」
イヴァは最初、膝を抱えながら火を見つめて微笑んでいた。
だがルークの話が進むにつれて、その表情は徐々に薄れていく。
やがて目を伏せ、黙り込んだ。
風が吹き、焚き火の赤が揺れる。
その揺れの中で、彼女の白い髪だけがはっきりと浮かんで見えた。
マルタが祈りの言葉を重ねる。
「神は見ておられる……」
ルークは乾いた笑いを漏らした。
「神が見てたなら、俺はとっくに食われてたさ」
ティナはイヴァの横顔を盗み見た。
焚き火の赤が、彼女の頬にかすかな影を作っている。
その影は、まるで何かを隠しているかのようで――胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
(……何も聞かないほうがいい。今は)
「……もう、休もうか」
イヴァの低い声は、焚き火よりもずっと冷たく感じられた。
四人はそれぞれに寝具を整える。
ルークは背を向け、マルタは祈祷袋を握ったまま目を閉じた。
ティナはイヴァの背中を見ながら、さっきのルークの話を反芻する。
――白かったか黒かったかも分からない獣。
牙の太さ。止まらない血。
胸の奥で、何かがじわりと熱を帯びた。
恐怖とも違う、まだ名のつけられないものが。
焚き火の赤が次第に弱まり、雪の匂いが夜を満たしていく。
世界は、再び白に閉ざされようとしていた。
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