第16話「獣の気配」
風が強く、雪が粉になって舞っていた。
頬に当たる粒が、まるで細かい砂のように痛い。
足元は膝まで沈み、踏むたびに重い音を立てる。
イヴァが先頭で、私はその背を追っていた。
ルークは少し離れ、周囲を警戒しながら進んでいる。
マルタは口元に祈りの言葉を置き、護符を胸に抱えていた。
「風が変わってきたな……」
ルークが呟く。
雪の匂いに混じって、金属のような、鉄のような香りが鼻をかすめる。
私も思わず息を止めた。
少し先、雪面に黒ずんだ影が横たわっているのが見えた。
「……あれ、何?」
私が足を止めると、イヴァが一瞬だけ肩を強張らせたのを見た。
近づくにつれ、それが何か分かった。
切り裂かれた獣の死骸ーー小型の鹿のような生き物。
雪に埋まりかけている体はまだ温かそうで、血がじわりと流れ出し、周りの雪を赤く染めている。
ルークは一歩前に出て膝をつき、慎重に傷口を調べた。
「……噛み跡だ。だが、こんな深さ、見たことがない。牙が異常に長い……」
彼の声がかすれている。
マルタは懐から護符を取り出し、獣の額にそっと置いた。
雪の上に小さく刻まれた文字が、風に揺れて消えそうになる。
「悪しきものが通った証だわ…….」
彼女の指先が、微かに震えていた。
私は息を飲んだ。
目の前の光景が現実のものとは思えなかった。
「こんなところに、獣なんて……」
「いるさ」
ルークが顔を上げる。
「だが、これは普通じゃない。狩りじゃない、殺し方が違う」
その言葉に、胸の奥が冷たくなった。
イヴァは沈黙したまま、死骸を見下ろしている。
白い髪が風に乱れ、その顔の表情は読み取れない。
だが、その手が小さく握られているのを、私は見逃さなかった。
「イヴァ……大丈夫?」
思わず声が出た。
「……ええ」
彼女は目を伏せたまま、低く答える。
「ただの獣よ」
その声は、いつもの余裕とは違い、わずかに震えていた。
マルタが護符を握りしめ、祈りを強める。
「雪の神よ、我らをお守りください……」
ルークは雪面に残る足跡を追いかけるように視線を動かし、首を振った。
「おかしい。足跡が続いてない……途中で消えてる。まるで空から……」
言いかけて、彼は黙った。
風がひときわ強く吹き抜け、四人の髪を乱した。
その時、誰かの口から、かすれた声がもれた。
「……何かがおかしい」
誰の声だったのか、分からない。
ルークか、マルタか、あるいは自分自身の心の声だったのか。
雪の上の赤が目に焼きついて離れない。
イヴァが一歩、獣の死骸から離れた。
「行きましょう」
その声はいつもの冷静さを装っているのに、どこか急いている。
私は彼女の背を追いながら、胸の奥で何かがざわつくのを感じていた。
風が強くなり、雪の匂いの奥に、鉄より濃い匂いが残っている。
歩みを止めれば、この白い世界に飲まれてしまいそうだった。
ルークは最後に死骸へ視線を戻し、低く呟いた。
「……獣じゃない、何か別のものだ」
その声を背に、私たちはび雪原を進んだ。
吹きすさぶ風の中で、赤い痕跡はやがて白に埋もれていき、何もなかったかのように消えていった。
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