第15話「雪の匂い」

雪道に、足音だけが刻まれていく。

半ば埋もれた獣道のような斜面を、私たちは黙々と進んでいた。


吐く息は白く、顔に当たる風は刃のようだ。

背負った薬草袋の重みが、じわりと肩に食い込む。


歩調を乱さないように意識を整えつつ、私はふと目を閉じて息を吸い込んだ。


――雪の匂い。


冷たくて、どこか鉄のような匂い。

その奥に、懐かしい温度がかすかに潜んでいる。


あの日も、こんな匂いだった。


視界が溶け、足元の雪がいつかの小川の水音に変わる。

幼い私と、あの子がいた日。



まだ私が十歳にも満たないころ、薬草を採りに村はずれの小川へ行った。

雪解けの頃で、流れが速く、石が滑りやすい。


その岸辺で、白い髪の少女が膝を抱えて座っていた。

まだ今のイヴァよりずっと幼く、顔も細くて、唇は紫色に震えていた。


「どうしたの?」


私が声をかけると、その子はびくりと身をすくめ、背を向けようとした。

だが、足元が滑って水に足を取られ、ずぶ濡れになってしまう。


私は慌てて岸に飛び降り、手を伸ばした。


「待って、逃げないで。寒いでしょ?」


私は近くの枝を折って火を起こし、まだぎこちない手つきで自分のマントを脱ぎ、その子の肩にかけた。

薬草袋の中から乾いた布を取り出して、彼女の手を拭く。


その子は、信じられないものを見るような目で私を見つめた。

瞳は深い黒に近く、肌は雪よりも白かった。


周りの子たちが噂していた“狼の子”の顔だと、ようやく私も気づいた。


でも、怖くはなかった。

震えている手があまりにも細く、冷たく、放っておけなかった。


「……どうして怖がらないの?」

彼女は小さな声でそう尋ねた。


「だって、寒いでしょう?」


私はそう答えるしかなかった。


その瞬間、彼女がかすかに笑った。

雪解け水の中で光るような、かすかな笑顔だった。


その笑顔を、私はずっと覚えている。

あれが、私の“はじまり”のひとつだった。



現在に戻ると、視界はまた白一色の雪原に変わっていた。

前を歩くイヴァの背中が、風に揺れる。


白い髪が雪に溶け込むようで、遠くの山脈の光と区別がつかない。


私はそっと薬草袋を抱きしめた。


母のために薬師を学んだ。

でも、もうひとつ理由がある。

あのときの“手”を忘れたくないから。


――イヴァを助けた小さな自分の手。

それが今、私をここまで連れてきた。


「寒くない?」


イヴァがふいに振り返り、笑う。


「まだ大丈夫」


私は笑い返した。

風が頬を刺すのに、胸の奥は不思議とあたたかかった。


その少し後ろで、ルークがしゃがみ込み、雪面をじっと見ている。


「足跡が……消えてるな。風だけじゃない、何かがおかしい」

彼は小声でマルタに言った。


マルタは小さくうなずき、護符に指を滑らせている。


私はその声を半ば聞き流し、イヴァの横顔に目を向ける。

胸の奥で、何かがふくらんでいく。


――この匂いは、始まりの匂いでもある。


白い風が頬をかすめ、私は深く息を吸い込んだ。

雪の匂いが肺に満ちる。


そのまま一歩、もう一歩。

足跡の向こうに、まだ見ぬ春の光がかすかに揺れている気がした。

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