第15話「雪の匂い」
雪道に、足音だけが刻まれていく。
半ば埋もれた獣道のような斜面を、私たちは黙々と進んでいた。
吐く息は白く、顔に当たる風は刃のようだ。
背負った薬草袋の重みが、じわりと肩に食い込む。
歩調を乱さないように意識を整えつつ、私はふと目を閉じて息を吸い込んだ。
――雪の匂い。
冷たくて、どこか鉄のような匂い。
その奥に、懐かしい温度がかすかに潜んでいる。
あの日も、こんな匂いだった。
視界が溶け、足元の雪がいつかの小川の水音に変わる。
幼い私と、あの子がいた日。
*
まだ私が十歳にも満たないころ、薬草を採りに村はずれの小川へ行った。
雪解けの頃で、流れが速く、石が滑りやすい。
その岸辺で、白い髪の少女が膝を抱えて座っていた。
まだ今のイヴァよりずっと幼く、顔も細くて、唇は紫色に震えていた。
「どうしたの?」
私が声をかけると、その子はびくりと身をすくめ、背を向けようとした。
だが、足元が滑って水に足を取られ、ずぶ濡れになってしまう。
私は慌てて岸に飛び降り、手を伸ばした。
「待って、逃げないで。寒いでしょ?」
私は近くの枝を折って火を起こし、まだぎこちない手つきで自分のマントを脱ぎ、その子の肩にかけた。
薬草袋の中から乾いた布を取り出して、彼女の手を拭く。
その子は、信じられないものを見るような目で私を見つめた。
瞳は深い黒に近く、肌は雪よりも白かった。
周りの子たちが噂していた“狼の子”の顔だと、ようやく私も気づいた。
でも、怖くはなかった。
震えている手があまりにも細く、冷たく、放っておけなかった。
「……どうして怖がらないの?」
彼女は小さな声でそう尋ねた。
「だって、寒いでしょう?」
私はそう答えるしかなかった。
その瞬間、彼女がかすかに笑った。
雪解け水の中で光るような、かすかな笑顔だった。
その笑顔を、私はずっと覚えている。
あれが、私の“はじまり”のひとつだった。
*
現在に戻ると、視界はまた白一色の雪原に変わっていた。
前を歩くイヴァの背中が、風に揺れる。
白い髪が雪に溶け込むようで、遠くの山脈の光と区別がつかない。
私はそっと薬草袋を抱きしめた。
母のために薬師を学んだ。
でも、もうひとつ理由がある。
あのときの“手”を忘れたくないから。
――イヴァを助けた小さな自分の手。
それが今、私をここまで連れてきた。
「寒くない?」
イヴァがふいに振り返り、笑う。
「まだ大丈夫」
私は笑い返した。
風が頬を刺すのに、胸の奥は不思議とあたたかかった。
その少し後ろで、ルークがしゃがみ込み、雪面をじっと見ている。
「足跡が……消えてるな。風だけじゃない、何かがおかしい」
彼は小声でマルタに言った。
マルタは小さくうなずき、護符に指を滑らせている。
私はその声を半ば聞き流し、イヴァの横顔に目を向ける。
胸の奥で、何かがふくらんでいく。
――この匂いは、始まりの匂いでもある。
白い風が頬をかすめ、私は深く息を吸い込んだ。
雪の匂いが肺に満ちる。
そのまま一歩、もう一歩。
足跡の向こうに、まだ見ぬ春の光がかすかに揺れている気がした。
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