第8話「白い壁への一歩」

村はまだ薄暗く、しんしんと雪が降っていた。

 夜の名残を吸い込んだ空気はひどく冷たく、吐く息が白く霧になって頬にまとわりつく。


 小さな家々の軒先や物陰から、村人たちがこちらを見ていた。泣きながら手を振る者、無言で背を向ける者、祈るように両手を胸に当てる者──それぞれの影が雪煙にかすんでいく。


 背中に荷物を背負うたび、肩がきしんだ。手袋越しの指先が震え、夢の中で聞いたあの約束がふと頭をよぎる。


 いつか、私と一緒に遠くへ行く──


 胸の奥が、寒さとは違うものでざわついた。


「……本当に行くのね」


 誰かが呟いたような気がした。振り返ると、物陰から見ていた年配の女性が袖で目元を押さえている。


「ええ。もう決めたの」


 私は自分に言い聞かせるように小さく答え、荷を持ち直した。


 四人の姿が、雪の白に埋もれながら浮かび上がる。


 まず、私──ティナ。薬草と道具、少量の食料を背負い、肩紐が肌に食い込む。指先は手袋越しでも少しこわばっている。


 イヴァは軽装で、白い髪が雪に溶け込んでいた。表情は余裕で、けれど私にだけ目をやって笑う。


「怖がらないで、ね?」


 囁くように言って、軽く肩を叩く。その温度が、かえって胸を締めつけた。


 ルークは罠と猟具を抱え、無精ひげに雪を積もらせながら先頭に立つ。


「俺が道を作る。お前らはついてこい」


 短く言って、雪を踏み固めるように歩き出す。


 マルタは護符と祈祷道具を懐にしまい込み、唇を引き結んでいる。視線は一瞬だけイヴァをかすめた。


「祈りは山を動かせないけれど、せめて風くらいは和らげたいものだわ」


 そう言って、深く息を吐いた。


村の門を抜ける瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。


「ティナ、手は冷たくない?」


「……大丈夫」


 イヴァの問いかけに、そう答える声が震えていた。


 門の木柵には雪が積もり、きしむ音だけが耳に残った。

 その先は、すぐに雪原だった。足元は踏み固められておらず、膝まで埋まるたびに冷たい水が靴の隙間にしみこむ。


 背後を振り返ると、村はすでに白い靄の中でぼやけている。


「……ここから先は、自分たちだけだな」


 ルークが低く言う。


「その方が気楽よ」


 イヴァが笑い返す。

 その笑いが、雪よりも冷たく感じられたのは気のせいだろうか。


 風は容赦なく吹きつけ、雪は視界を削っていく。足跡もすぐに消え、私たちの存在さえも呑み込もうとするかのようだった。


 マルタは小声で祈りをつぶやきながら、その後ろに続く。護符の端が、彼女の手の中でわずかに震えているのが見えた。


「ティナ、歩ける?」


「ええ……大丈夫」


 イヴァが歩調を合わせ、私の隣に並んだ。彼女の白い髪がふわりと揺れ、頬にかかった雪を弾く。


 その横顔を見つめながら、私は胸の奥のざわめきを押し込める。

 夢の中で見たイヴァの手の冷たさ、あの囁き──いつか、遠くへ。その約束が、吹雪の音と一緒に蘇る。

 



 ルークの背中は大きく、ひたすらに雪を踏みしめて道を作る姿が頼もしく見えた。


「お前ら、しっかり歩けよ。ここからが本当の試練だ」


 彼は振り返らずに言った。


 私は深く息を吸い込み、足を踏み出した。


 山脈の頂から吹き下ろす雪煙の向こう、昇りはじめた太陽が一筋の光を投げていた。

 その瞬間だけ、ほんの一瞬だけ、白い世界に淡い色が差したように見えた。


 不安も寒さも緊張も消えはしない。けれどその光は、確かに希望だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る