第4話「空日」
小屋を出ると、頬に当たる空気が思いのほか重く、冷たかった。
吐いた息がすぐに白く凍り、薬草の包みを抱える指先までじんじんと痺れる。
村の道にはもう薄く雪が積もり、足跡が幾重にも交差している。
猟師たちの声が、まだ耳に残っていた。
「獣は人間だ」
ルークのあの言葉。根拠はないのに、奇妙な確信のように響いている。
家畜を裂いた牙、見つからない足跡、そして、村に漂うあの得体の知れない緊張感。
「……寒いわね」
隣を歩くイヴァが、わざとらしく肩をすくめる。
白い髪が風に舞って、雪景色のなかでひときわ目立っていた。
「こんな日に薬草を運ぶなんて、あんたも物好き」
「仕事だからね」
私は素っ気なく答える。
けれど胸の奥で、何かがざわついていた。
「ねえ、ティナ」
イヴァが足を止めた。
「ルーク、ああ言ってたけど、あなたはどう思う? 獣は人間だって」
「……噂の真偽を考えても仕方ないよ」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
イヴァは目を細め、微笑む。
「そうね。仕方ないことなんて、この村には山ほどあるもの」
*
集会所を離れると、広場の端でルークが罠を広げていた。
太い鉄のバネと鎖がむき出しになった、獰猛な仕掛けだ。
「これで獣を仕留める」
彼は満足げに顎をしゃくる。
「牙の深さは人間じゃねえ。だが罠なら、どんな獣も動けねえはずだ」
「そんなもので、本当に仕留められるかしら」
イヴァが淡々と口を挟んだ。
彼女の声は柔らかいが、氷のように冷たい。
ルークの笑顔が、わずかに引きつる。
「おっと、怖いことを言うな」
「ただの感想よ」
二人の間に、目に見えない火花が散った気がした。
私は慌てて薬草包みを抱え直す。
「南への道は雪崩で塞がれているって本当ですか」
私は話題を変えた。
「ああ、本当だ。雪の層が厚すぎる。今のうちに準備しなきゃ、村は閉じ込められる」
ルークは低い声で言った。
「山を越えるか、ここに残るか。どちらにしても命懸けだ」
その言葉が、鋭い針のように胸に刺さった。
村に居続けるか、危険な山を越えるか――どちらも安全ではない。
しかも、狼の噂が広がるなか、イヴァだけが異質な光を帯びている。
私はその背を見つめながら、どうしようもない不安に飲み込まれていった。
*
用事を終えて広場を離れると、吹雪が強くなっていた。
風が頬を切り、遠くに山脈の白い影が浮かぶ。
まるで巨大な壁のように、空と大地のあいだに横たわっている。
あの白い壁を越えなければ、春は来ない。
けれど、私たちは本当に越えられるのだろうか。
足を止め、白い吐息のなかで、そう呟いた。
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