10話 揺れる通学路

──朝の電車。



始業前のラッシュで、車内はぎゅうぎゅうに詰まっていた。


押し込まれるみたいに乗り込んだ私は、なんとか吊り革にしがみつく。


背中にも横にも人の気配。


制服の生地が触れ合って、息苦しいほど近い。


次の駅で、さらに人が押し寄せた。


押し寄せる波に、体がぐらりと揺れる。



「わっ……」



前のめりに引っ張られ、足元のバランスが崩れた、その瞬間。



「危ねっ」



低い声と同時に、ぐっと腕を引かれた。


背中に、しっかりとした腕の感触。


振り返ると、すぐ後ろに結城先輩がいた。



「危ないから、じっとしてろよ」



短くそう言って、私を庇うように前に立つ。


ほんの少し身じろぎしただけで、肩と背中が触れそうな距離。


制服の背中越しに感じる近さに、心臓が大きく跳ねた。


息が詰まって、吊り革を握る手がじんじん震える。



(……ど、どうしよう……今、結城先輩に守られてる……?)



顔を上げる勇気が出なくて、視線は床に釘付けのまま。


それでも意識だけは、全部、すぐ近くにいる人に向かってしまう。


──周囲のざわめき。



「今の見た?」


「結城が1年の子、庇ってた!」



小さな驚きと興奮が混じった声が、耳に入ってくる。


振り向けない。目も合わせられない。


私は俯いたまま、耳だけがじわじわと熱を帯びていった。





人混みの中、大和は拳を握りしめたまま動けなかった。


すぐ近くにいるのに、詰まった車内が、その一歩を許してくれない。


視線の先では、結城先輩が翠のすぐそばに立っている。


庇うような位置。


自然で、当たり前みたいな顔。


喉が詰まって、声も出ない。


横で友達が、



「やべー、今の!」



と小声で笑う。


その軽さが、やけに遠く、耳障りに響いた。



(……また結城さんかよ)



胸の奥がざらついて、じっとりとした汗が額を伝う。


握った拳に、爪が深く食い込んだ。





──電車を降りると。



混雑から解放されたホームで、私は大きな荷物を抱えていた。


部活で使う練習用のバッグ。


ユニフォームやビブス、水の入ったボトルまで詰め込まれていて、持ち上げるたびに腕が重くなる。



(今日、これ持ってくるって言ったの、私なんだけど……重い……)



階段を前に、思わず足が止まりかけた、その時。



「貸して」



結城先輩はそれだけ言って、私の腕からするりとバッグを奪い取る。



「えっ、でも……!」


「いいから」



短く、迷いのない声。


軽々と肩に担いで歩き出す背中が、当たり前みたいに前へ進んでいく。


そのすぐ横を歩く形になってしまって、言葉が出なかった。



(い、いいのかな……本当に……?)



ただ隣を歩くだけで、視線が集まっているのがわかる。


後ろからひそひそ声が追いかけてきて、背中がむず痒くなる。



「今の見た?」


「やばくない? 一年の子、カバン持ってもらってたよ」


「マネの子でしょ?」



断片的な言葉が風みたいに耳に触れては、胸の奥に落ちていく。



(……結城先輩って、

 やっぱりすごい人気なんだな……)



そんな当たり前のことが、今はいつもより重く響いた。


その隣を歩く自分に、居心地の悪さと、小さな誇らしさが同時に混ざっていく。


うつむきそうになる顔を、必死にまっすぐ前へ向けた。





──通学路。



少し離れたところで、大和は友達と歩きながら、その光景を見ていた。



「なあ、今の見た? 完全に結城さんじゃん」


「長谷川ってさ、やっぱ結城さんのガチなんじゃね?」



軽口まじりの声が飛ぶ。


大和は無理やり笑って返す。



「さあな。知らねーよ」



そう言ってみせる声は、思ったよりも平坦に出た。


だからこそ、誰にも本音は気づかれない。


けれど胸の奥には、燃えるような嫉妬が渦巻いていた。


握った拳をポケットに突っ込み、爪が手のひらに食い込む。


笑い声に合わせて頷くたび、鼓動が耳の奥で不自然に響く。



(なんで、こういう時に限って、動けねーんだよ、俺)



飲み込んだ言葉が、喉の奥で重く残った。





──そして、美月の教室。



席に着いた途端、周囲の女子たちが一斉に盛り上がっていた。



「ねえ、さっきの電車で見た人いる?」


「結城、1年の子のこと庇ってたでしょ! やばくない?」


「かなりいい感じだったよね~」


「あの子誰?」


「男バスマネの長谷川って子じゃない?」


「うそっ! そうなの?」


「その後も一緒に登校してたよねー」


「カバン持ってあげたりしてた! 優しすぎでしょ」



楽しげに弾む声が、机の上で跳ねるみたいに広がる。


美月はノートをめくる手をほんの一瞬止め、視線を伏せた。


まぶたの裏に、さっき聞いた名前と、既に知っている顔が浮かぶ。


すぐに取り繕うように微笑み、何事もなかったようにページをめくり直す。


けれど胸の奥には、冷たい痛みが静かに広がっていた。



(噂になるのも、時間の問題か……)



小さく息を吐き、誰にも聞こえない声で、そっと呟く。



「……やっぱり特別なんだ」



その言葉は、ノートの紙に吸い込まれるように消えていった。











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