9話 揺れる心とざわめき

──翌朝。



机に教科書を広げても、文字が全然頭に入ってこない。


朝の教室は、いつも通りのざわめきに包まれていた。


黒板を拭く音、プリントを配る紙のすれる音、椅子を引く甲高い音。


誰かの笑い声。


窓の外ではグラウンドを走る掛け声。


全部が昨日までと同じなのに、その中で自分だけ取り残されているような気がした。


胸の奥に、小さな違和感が残っている。


勉強モードに切り替わらない、というだけじゃない。


まるで、自分の心だけが昨日のまま止まっているみたいだった。



(落ち着かなきゃ……)



鉛筆を握る指が、かすかに震える。


ページをめくっても、視線は同じ行を行ったり来たりするばかり。


頭に入ってくるのは、黒板の文字じゃなくて――昨日の「頭ポン」が、まだ鮮明に残っていた。


手の感触。


あの距離。


あの笑顔。



(あの顔……絶対、冗談じゃなかった。

 気のせい、じゃないよね……?)



自分で考えておいて、自分で慌てる。


胸がざわついて仕方がない。


頬の内側をそっと噛みながら、ノートの端を無意味にめくってごまかす。


前の席の子の話し声も、先生が入ってくる気配も、どこか遠くに聞こえる。


チャイムが鳴っても、姿勢を正しただけで、意識は半分以上ぼんやりしたままだった。





──休み時間。



「翠、なんか今日、顔赤くない?」



隣から身を乗り出してきた莉子が、じっと覗き込んでくる。


細い指先で、私のほっぺをつつくふりまでしてきて、思わず身を引いた。



「えっ!? そ、そんなことない!」


「うそ。さっきからぼーっとしてたし」



慌てて否定すると、莉子はふっと小さく笑って肩をすくめた。



「昨日の結城先輩、めちゃかっこよかったよね! 翠、今、心臓ヤバいでしょ」


「なっ……! そ、そんなこと……!」



言いかけた声が裏返って、顔が一気に熱くなる。


机の下でスカートの裾を握りしめ、うつむくしかなかった。



(落ち着かなきゃ、ほんとに……)



図星を刺されたみたいで何も言えない。


胸の奥がじんじん熱くて、余計に言い返せなかった。



「ごめんごめん、いじってるわけじゃないからね?」



莉子が小声でつけ足す。



「なんか、嬉しそうだったからさ。……変なこと言われたら、ちゃんと言ってよ?」



覗き込む瞳は、からかいよりも心配の色が濃くて。


その優しさに、少しだけ呼吸がしやすくなった。





──体育館。



放課後、マネージャーとしての仕事に戻っても、鼓動は完全には元に戻らない。


タオルを並べていると、背後からひそひそ声が聞こえてきた。



「昨日さ……結城先輩、長谷川に……」


「頭ポンだろ? あれ、ガチっぽくね?」


「うわ、見てた見てた!」



笑いを含んだ声、驚いた声、面白がる声。


視線がちらちら向けられるのを感じて、思わず俯いた。


喉が渇いて、水筒の冷たさをぎゅっと握る。


胸がきゅっと縮んで、呼吸が浅くなる。


耳まで熱くなって、タオルを並べる手が微かに震えた。



(違う、あれは、その……たまたまで……)



言い訳が頭の中で空回りする。


けれど、うまく言葉にはできなくて、ただ黙って仕事を続けるしかなかった。


目の前のタオルの白が、やけに滲んで見えた。





──同じころ。



コートの端では、大和がいつもより荒々しい声を張り上げていた。



「もっと集中しろよ! そこルーズだって!」



ボールを叩く音も強く、パスを受ける手が少し乱暴になる。


ジャンプして着地するたび、床がいつもより大きく鳴る気がする。


額の汗を乱暴にぬぐい、歯を食いしばる仕草。


その瞳は、ちらり、ちらりと翠を追っていた。



(……見ないようにしろよ、集中)



自分に言い聞かせるように、さらに声を張る。


胸の奥で渦巻く苛立ちを押さえ込むように、ボールを拾い上げる指先に、無意識に力がこもっていた。


本当は知っている。


あのとき、一歩早く動けなかったのは、自分だということを。





──ベンチの美月。



スコアシートに視線を落としながら、笑みを浮かべたまま、ほんの一瞬だけ表情が固まる。


ちら、と視線の先には、タオルを並べる翠と、その向こうにいる煌大。



「……これ以上、踏み込まれたら困るんだけどな」



誰にも聞こえないくらいの小さな声でつぶやき、タオルを丁寧に畳み直す。


目の奥にかすかな陰りを宿したまま、誰にも気づかれないように呼吸を整える。


視線は煌大に向けられていたが、次の瞬間には何でもないふうに逸らした。



(あの子は悪くない。わかってる。……わかってるけど)



胸の奥でざらりとした感情が、静かに身じろぎする。





──翠はまだ気づかない。



自分の頬が熱い理由を、「恥ずかしさ」の一言で片づけようとしている。


けれど周囲は、少しずつ理解し始めていた。


煌大の視線が、練習の合間やふとした瞬間に。


確かに、翠へと向けられていることを。










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