第2話

第七章 母の代償


モニターに映し出された雅人の脳波は、これまでにないほど鮮やかな曲線を描いていた。泉美がそっと雅人の手を握ると、その波形は一気に高まり、愛情を示す信号が迸る。「今だ……!」田中がスイッチを押す。脳波同調システム――それは、愛情によって活性化した神経伝達物質を「別の脳」に転送する装置だった。雅人の脳から抽出された恋の刺激は、泉美を経由して、美桜の脳へと流し込まれていく。

次の瞬間、隣室に眠る美桜の小さな指がわずかに動いた。まぶたが震え、ゆっくりと光を取り戻していく。「……お母さん?」か細い声が、静まり返った部屋を震わせた。雅人は息を呑み、泉美は泣き崩れるように娘に駆け寄ろうとした。だが、その時アラームが鳴り響く。「脳波が……泉美の脳波が崩れていく!」田中の叫びに振り返ると、泉美の顔は蒼白で、膝から崩れ落ちていた。「なぜ……泉美まで?」雅人が支えようとするが、田中は震える声で答えた。「……この装置は、母の愛情を“導管”にしている。娘を覚醒させるには、母の情動を引き渡すしかなかったんだ」

泉美は微笑み、弱々しく首を振る。「美桜を……起こすためなら……私の愛で……十分だから」その言葉に、田中の目から涙が溢れた。「泉美……すまない……こんなことを……」彼女は夫の頬に触れ、静かに答えた。「慶彦となら……ここまで来られた。……美桜を、お願いね」

「お母さん!」ベッドの上で目を覚ましたばかりの美桜が、小さな声で呼んだ。泉美はその声に応えるように、最後の力で娘の頬に触れる。「……よかった……あなたの笑顔が、見られて……」その瞬間、モニターの線は静かに平坦になった。


終章 残された恋心


数週間後。病室には、美桜の笑い声が戻っていた。だが、その傍らに泉美の姿はもうない。田中は医師としての責務と、夫としての罪悪感を抱え、ただ黙々と仕事を続けていた。妻と共謀し、雅人を騙して「惚れさせた」こと。その恋心を利用して娘を救ったこと。罪の意識は彼を蝕んでいた。

雅人もまた、真実を知っていた。――自分の恋は計算の一部だった。それでも、泉美が最後に見せた微笑みを思い出すたび、胸が締めつけられる。美桜が小さな手を握ってくる。「お兄ちゃん……ずっといてくれる?」その無垢な瞳に、雅人はかすかに微笑んだ。泉美が遺した愛情は確かに生きている。だが彼の胸にあるのは、裏切りの痛みと、それでも消せない恋心。

――恋は入院計画から始まった。けれど最後に残ったのは「母の犠牲」と「娘の希望」、そして「報われない愛」だった。白い空の下、雅人はそっと誓った。泉美が守った命を、決して無駄にはしないと。そして、彼女を愛した気持ちを墓場まで抱えて生きるのだと。


追章 泉美の遺書


数週間後、看護師ロッカー最下段の金属音が小さく鳴った。

当直用のカーディガンの下、白い封筒が一通。表には震えるような文字で「慶彦さんへ/必要なら雅人さんにも」とあった。


田中は深く息を吸い、封を切った。美桜はベッドの上で膝を抱え、雅人は少し離れて立ったまま、目を伏せている。


――――――――――


『手紙』


慶彦さんへ


この手紙をあなたが読む時、私はもうそちらにはいないのでしょう。

もし美桜が目を覚ましていたなら、まずはおめでとうと言わせてください。あなたと二人で、あの子の寝息を数えた長い夜が報われますように。


私は看護師である前に、母で、そしてあなたの妻です。

それでも、私たちが選んだ方法が正しかったとは言い切れません。倫理を越えてしまったこと、無関係の人を巻き込んだこと、すべて自覚しています。

けれど、あの夜あなたが机に額をつけて泣いた姿を、私は忘れられませんでした。「もう他の手段はない」と呟いた声に、私の心は決まってしまったのです。


導管として私の情動を通す設計――あなたは何度もやめようと言ったね。

私は、母として署名しました。誰のせいでもなく、私の意志です。

もし結果が私の命を削るのだとしても、娘の笑顔一度分なら、私はそれで足りると思いました。


雅人さんへ


あなたを巻き込み、そして欺きました。

研究は真実、偶然はほとんど計算、出会いは半分だけ運命。

最低の告白です。どう責められても仕方がない。


けれど、あなたに嘘のすべてを言い切れない瞬間がありました。

手を握ったときのあなたの脈が、検査室の冷気を少しだけ温かくした。

「大丈夫ですよ」と言いながら、私の方が救われていました。

あなたの恋は、娘のための“手段”でありながら、私自身にとっては、人間としての最期の礼儀を思い出させてくれた“光”でした。


だからお願いがあります。

どうか、あなたの恋を、私だけの罪にしないでください。

それはあなたの美しさであって、誰のものでもない。

私を許す必要はありません。ただ、あなた自身の素敵な出逢いを祈ってます。


美桜へ


あなたのほっぺに指を置くと、いつも小さく笑ってくれたね。

お母さんは、あなたに長い時間をあげられないかもしれないけれど、

その代わりに“最初の一歩”を押します。歩き出したら、あとはあなたのもの。

いつか好きな人ができたら、泣いてもいいし、怒ってもいい。

その全部が、あなたを起こし続けるから。


最後に、三人へ


私がいなくても、私はここにいます。

あなたたちが触れる手すりの冷たさ、廊下の消毒液の匂い、朝いちばんの窓の白さ。

私はこの病院で、何度も何度も“はじめての笑顔”を見送りました。

次は、あなたたちの番です。


慶彦さん、あなたを愛しています。

雅人さん、あなたの恋を尊敬します。

美桜、あなたの人生を祝福します。


桂 泉美


――――――――――


読み終えた時、部屋には長い沈黙が落ちた。

田中は手紙を胸に当て、声にならない呼吸をひとつ吐く。

雅人は、握った拳をそっとほどき、封筒の角をまっすぐに揃えた。

美桜が囁く。「お母さん、ここにいるよね」

雅人は頷いた。「うん。ここにいる」


窓辺の白さが、少しだけ柔らかく見えた。

三人の世界は欠けたまま、それでも前に進む形を、ゆっくりと覚え始めていた。

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恋は入院計画から 奈良まさや @masaya7174

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