エンディング

◆日常へ


チャイムじゃない。

カンカン、ガムテを切る音。

体育館の床がきゅっ、きゅっと鳴る。夕方の光が斜めに差し、埃が金色に泳いでいる。

ペンキの匂い。マーカーのキャップ、パチン。

——帰ってきた。学園祭、準備中。


「ここ、タペストリー下げる。高さは……もうスコーし上」

ゆめが腕を伸ばす。脚立、カタッ。

声はいつも通り。落ち着いてる。だけど、眼差しに柔らかい輪郭があった。


「角度は15度。ライトは拡散じゃなくて——反射板で跳ね返せば、ほら」

ゆうじが得意満面でアルミ板を掲げる。ピカ。

「……軍事じゃないけど、光学は応用できるから」

誰も止めない。たぶん、楽しいから。


俺は、といえば。

赤い布を持って走って、足を引っかけ、ずざぁぁぁ。

「ぬおお!? あっぶな!」

段ボールががしゃん。

静止。

数秒後、爆笑。

「お前、変わんないなぁ」誰かの声。

「変わってるよ。転んだ後が早い」別の誰か。


胸ポケットのスマホが震えた。花柄。

《はい姿勢〜。背ぇ伸ばし。ついでに水飲み》

大阪のおばちゃん、健在。

「は、はい……たぶん」

『たぶん』が口から勝手に出る。癖になった。

《たぶん言うてもええけど、やることはやるんやで》

はい。


体育館の隅。

段ボール山の陰に、見慣れた小物がひとつ紛れていた。

コピー用紙の束。角がちょっとだけ、濡れたみたいに波打っている。

誰かが「使っていい?」と聞く。

「——うん。しっかり使おう」

喉の奥が熱くなる。

紙吹雪の白を、胸の中でそっとたたむ。

『でんちゃん……元気でやってるといいな』

思ったのは、たぶん俺だけじゃない。


「ほな、重いの持つで」

聞き慣れないはずの声が、妙に馴染んで体育館に響く。

鬼頭が顔だけ出して、差し入れのラムネ箱を肩に引っ掛けていた。

「保護者じゃないけど、まあそのへんは大目に見てや」

ゆめが苦笑し、ラムネを一本抜いて差し出す。「ありがとう」

ビー玉、コトン。泡、しゅわ。


藤広はモップを持って、床のテープ跡をコシコシ。「ここ、滑ります。危ないので」

彼は目を細め、すぐに視線を逸らした。「あ、いや、すみません、癖で」

もう誰も、彼の癖を咎めない。助かる癖だ。


白波は校門の前で、物資搬入の台車を押している。

結束バンドが腰に三本。

「時間がない。要点だけ」

会釈して去る。動きは変わらない。現場の人だ。


松永は職員室の前で、許可証の紙束をまとめていた。

「条件は明文化しましょう」

タブレットの画面に、校章のロゴが映っている。

眉は動かないけれど、声が少し柔らかい。


倉科は——どこにでもいる。

舞台袖にひょいと現れて、「本番で火は使えないよね?」と当たり前のことを言い、

「でも、火花の代わりに紙吹雪は?」

……俺は鼻で笑う。

「紙吹雪、もう十分見たから」

倉科は肩をすくめて笑った。「だよね。じゃ、シャボン玉で派手にしようぜ」


『たかし』

ゆめが呼ぶ。

「これ、結び直して」

赤い布の端は、さっきのドジでほつれていた。

「任せろ」

指が震える。

でも、結び目は前よりきれいにできた。

『たぶん、こういうのは得意かも』

俺は心の中でだけ、こっそり不確定を許す。


天井のライトが、じわっと温かい。

体育館の空気は、冷たい。けれど、胸の真ん中に薄い輪郭が残ってる。

呼吸が合う瞬間が、日常の中にもある。

——吸って、吐いて。

「いいね、もう一回」ゆめが言う。

「角度、あと二度」ゆうじが言う。

「ワシ、飴ちゃん配るで」鬼頭。

「消毒は任せて」藤広。


スマホがもう一度、ふるふる。

《ええ感じやん。背ぇ、もっと伸びるで》

「うん。いける。たぶん——いや、いける!」

声が出た。

体育館の響きは、優しかった。


窓の外、夕焼け。

校庭の砂が、さらさら。

風がカーテンを少しだけ揺らす。

日常は、まぶしい。

目を細める。

『——行こう。明日をやる。』

足はまだ不慣れだけど、前に出る音が、ちゃんと鳴った。キュッ。



◆残照アプリ


放課後。

教室の窓、きらきら。

段ボール、ガムテ、絵の具の匂い。学園祭の準備は音でできている。ガサ、ペタ、トントン。


机の上で、スマホがふるっと震えた。

《飲み物のむ。姿勢のばす》

短い。優しい。

画面を伏せたゆめが、息をつく。「……ありがとう」

誰に、じゃない。言葉に、だ。


別の机。ゆうじはリボンライトを角度で悩んでいる。

スマホがぴ、と光る。

《迷ったら三手先を消す。いまは二手で充分》

「二手で……充分」

彼はライトをひとつ外し、残した一本だけを天井に向けた。影がすっきりする。

「ね、いいじゃん」

「うん。——多分、いや、うん」

途中で言い直したのを、ゆめが見て、目だけで笑う。


体育館の入口。

鬼頭はコーンを並べて、通路をつくっている。

スマホが鳴る。

《重いのは二回で運ばない。三回でええ》

「そやな。欲張ったら腰いわす」

彼はコーンを減らし、ペースを落とした。

「鬼頭さん、手伝います」

「おう、ありがとな」

会話が柔らかく転がる。


廊下の隅。

藤広はポスターの端を指で押さえ、静かに貼っている。汗は少し。

《角から押す。深呼吸、短く》

「……はい」

貼り終えたポスターが、ぴしっと平らになった。

「慎二さん、綺麗」

「すみません——じゃなくて、ありがとうございます」


俺は、牛乳パックを抱えてうろうろしていた。

紙コップ、どこ。あっち。こっち。

つるっ。段差に爪先が引っかかる。

「わ、わっ——」

セーフ。ギリ。牛乳は助かった。

ポケットの中でスマホが、にぎやかに弾ける。


《あんた! 足元! 段差あったやろ! ほれ背ぇ伸ばし!》

《はいこれ飴ちゃん(気持ち)舐めるだけね、かまんとき》

《ついでに言うと——コップは準備室の二段目や。誰が置いたんか知らんけどな!》


「ありがとう! え、準備室の二段目?」

行ってみる。あった。ほんとにあった。

「……すげ」

口の中に、飴の味がした気がした。たぶん。いや、気のせいじゃない——気が、する。


教室に戻ると、黒板に大きな白い字。

【出し物:迷宮からの招待】

ゆめがチョークを置く。「タイトル、これで行く」

「いいね」ゆうじが頷く。「照明は一本で導線を作る。影は恐怖を演じるには十分」

鬼頭が「入退場ルート、詰めとくわ」とメジャーを伸ばし、藤広は消毒用のスプレーを並べた。癖だ。でも、ありがたい癖だ。


机の端で、もう一度スマホが光る。

俺のだけ、花柄で、ちょっと派手。


《あんた、よう動く子や。ええとこやで。でもな、動く前に息ひとつ》

《せーの、吸って……吐いて。ほら軽なったやろ》

「——うん。俺、いける。たぶ——いける」

言い直す。

「いける」


ふっと胸が詰まった。

紙吹雪。白い蝶。

安井さんの笑顔が、どうしても混ざってくる。

笑ってるのに、痛い。

机の影で、拳を握る。


スマホが、そっと震えた。

《泣いてええ時は泣き。拭いたら前や》

《その人の続き、あんたらでちゃんとやり》

画面の文字が揺れた気がした。俺の目が揺らしただけかもしれないけど。


「たかし」

ゆめが近くに来て、トングで背中をコツン。

「牛乳、運ぶ。こぼさないで」

「おう。俺、こぼさない。……たぶん」

「“たぶん”」

「——じゃない。こぼさない」


廊下。

光。声。笑い。

足音がリズムになる。キュッ、キュッ。

ポケットの中の花柄が、元気よく喋る。


《ほら背ぇ伸ばして。今日もええ顔》

《ご飯食べた? 食べ。動く子は食べなあかん》

《帰り、飴ちゃん買って帰り。みんなにも分け》


俺は笑って、うなずいて、牛乳をしっかり抱えた。

強さに不慣れでも、手の使い方は覚えた。

みんなの呼吸と、また少し、合っている。気がする。


教室のドアが開いた。

風が入り、ポスターがちょっとだけ揺れた。

「本番、明日」

ゆめの声。短い。確か。

「——行こう」

俺は言って、花柄の画面をポケットに返す。

中から、にぎやかな返事。


《ほな、いこか。景気よく》


◆次なる不穏


夕焼けが、商店街のシャッターを薄く塗っていた。オレンジ、すこし冷たい。

カラン。古いガラス戸の鈴が鳴る。風、ひとすじ。

「急ご。装飾、まだ残ってる」ゆめが前を歩く。トングはもう持っていない。代わりに、細い指で髪を結び直す。キュッ。

「音響の配線、僕やるよ。図面、頭に入ってるし」ゆうじが反射板のケースを肩に担ぐ。金具がカチ、と鳴る。


俺は、歩幅を合わせる。

膝、まだスコーし笑う。けど、前に出る。

「なあ、俺……たぶん、今日、普通に帰れるかな」

「帰る。帰って、食べて、寝る」ゆめが即答する。

「うん。食べる、寝る……すげぇ強そうな二連コンボ」

「それは誰でも使える」

「いや、俺は——」

喉が少し詰まる。笑いが漏れる。

そのとき、スマホがブルッと震えた。


《はいお疲れさん! 水分とった? 帰り道は明るいとこ通りや——ほな、背ぇ伸ばし》

画面の花柄。大阪のおばちゃんの声が、胸の裏をコツンと叩く。

「……うん。分かった。俺、背ぇ伸ばす。——たぶん」


交差点の角。

コンビニのガラスが、ふわり、と波を打った。ありえない、はずの揺らぎ。

店内の棚影が、ほんの一瞬、伸びて縮む。にゅう——ぅ。

「見た?」ゆうじが足を止める。

「見た」ゆめが短く答える。目が細くなる。

二人の間に、風がスッと通った。ぴり、と冷たい。


「気のせい……じゃない、よな。たぶん」

「“たぶん”は要らない。現象。現実」ゆめはコンビニの前に立ち、ガラス越しに店内を観察する。視線の動きが、レンズみたいに正確だ。

「冷蔵庫のコンプレッサ音、周期が乱れてる。電源系——いや、空間側」ゆうじが耳を澄ます。ブーン……ブ、ブ……。確かに、拍がズレる。

ちいさな音。ミシ。

天井の蛍光灯が、一拍遅れて光る。ドッ、ドッ。


《近寄りすぎんとき。様子見るんはええけど、ライン越えたらアカン》

おばちゃんが、袖を引くみたいに画面で合図する。

俺は、一歩だけ下がる。スニーカーがアスファルトをキュッと鳴らした。

「撤収判断?」ゆうじが問う。

「撤収。“今は”」ゆめが頷く。「準備を優先。明かり、人、連絡網。日常を強くしてから、対処」


ショッピングモールの方角で、低いざわめきが上がった。

遠くのガラス壁が、夕焼けを飲み込んで、また吐き返す。

ビルの影が“棚の通路”みたいに縞になって、道路へ伸びる。スッ、スッ。

鳥が一斉に飛ぶ。バサバサ。

空は澄んでいるのに、音だけが少し重たい。


「戻ろう」ゆめが言う。「今日の私たちの敵は、締切」

「締切は強い」ゆうじが苦く笑う。「けど、勝てる」

「勝つ。——たぶん」俺も笑う。

三人の足音が揃う。トトン、トトン。


信号待ちで、俺はコンビニのショーウィンドウに目をやった。

氷菓のポスター。その隅、ガラスの内側。

黒い四角が、豆粒みたいに点いた。

——ピッ。

一瞬だけ、見覚えのあるノイズが走る。

《■■■■》

読めない。けど、分かる。

『続き』が、そこにいる。


《怖ない怖ない。あんたには仲間おる。で、まずはご飯や》

「……了解。俺、食べる」

「何を」ゆめが聞く。

「カレー」

「カレーは正義」ゆうじが即座に同意する。

「それな!」思わず拳を握る。ぐっ。


信号が青になる。ピッ、ピッ、ピッ。

風。夕焼け。どこかの台所のカレーの匂い。

日常が、薄い膜みたいに肌に貼りつく。守られてる、というより、守る側の感覚。

俺は胸を張る。背ぇ、ちょっと伸びた気がした。


「行こう」

三人で渡る。

背中で、ガラスがふわりと波打った気配がした。

たぶん、次は——ちゃんと向き合う。

でも今は、帰る。

カレー。風呂。寝る。

そして明日、準備の続き。

飴ちゃんの約束をポケットに入れて、俺たちは歩いた。

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スーパーマーケットサバイバル 梅チップ @Kow700

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