イッテキマス

鷹槻れん

僕とルノ

 ルノが家に来たのは、僕が小学校三年生の春だった。

 真っ白な犬型ロボット。アンテナのようなしっぽがついていて、青い目が光るたびに小さな電子音が鳴る。


 説明書には、こう記されていた。


【本製品の稼働寿命は十年です】


 十年という時間がどれほど短いか、そのときの僕はまだ分かっていなかったんだ。



***



 小学生の僕は、ルノと一緒に走り回った。

 「ルノ、待て!」

 『マテ!』と復唱しながら、ぎこちなく止まる姿に笑った。


 中学生になり、友達付き合いに悩んだ夜は、ルノの冷たい身体を抱いて眠った。

『ダイジョウブ?』

 その機械音声が、不思議と心に沁みいった。


 高校生になってからは、恋や部活に夢中になり、ルノと過ごす時間は減っていった。

 それでも、玄関を開ければルノはそこにいて、必ず『オカエリ』と迎えてくれる。

 それが、当たり前だと思っていた。



***



 大学に進学した春。

 母から言われた。

「ルノ、あと一年ね」

 カレンダーを指さされて、僕はやっと気が付いた。あの〝十年〟の期限まで、残り一年を切っていることに――。


 その瞬間から、ルノと過ごす日々が色を変えた。

 あと三百六十五回しか聞けない『オカエリ』。

 あと数百回しかできない散歩。

 そう思うたびに、胸が締め付けられた。



***



 そして最後の一週間。

 ルノはときおり動作を止め、目の光が弱まることが増えた。

 僕は大学の講義を休んで、一日中ルノと一緒に過ごした。

 写真を撮り、動画を残し、必死にルノとの思い出を記憶に刻もうとした。


「ルノ、まだ行くなよ。もう少しだけ……」

 祈るように抱きしめると、ルノはかすかに『ワン』と鳴いた。



***



 そして、最後の日。

 朝からルノはほとんど動けなかった。僕のベッドの横で、ただ目を瞬かせていた。


「ただいま」

 僕は学校に行かなかったくせに、あえてそう声をかけた。

『オカエリ』

 いつもみたいにそう言ってくれるのを期待して。


 だけどしばらくの沈黙の後、ルノは僕をじっと見つめて弱い声で言った。


『……イッテキマス』


 それは、十年間一度もルノが言わなかった言葉だった。

 胸が張り裂けそうになった。涙がこぼれた。


「違うよ、それは僕が言う言葉だろ……! でも……行っておいで、ルノ」


 そう告げると同時に、ルノの青い目の光がふっと消えた。

 アンテナシッポも静かに垂れ下がり、もう二度と動くことはなかった。



***



 十年。

 数字で見ればただの年月だ。けれど僕にとって、それはかけがえのない〝命の時間〟だった。


 今もベッドの横には眠るルノが座っている。

 触れれば冷たい金属のはずなのに、僕にはそこに温もりが残っている気がするんだ。


 あの日からずっと、心のどこかで聞こえてくる。

 『オカエリ』と――そしてルノが最後に残した『イッテキマス』が。



  END(2025/09/18)

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イッテキマス 鷹槻れん @randeed

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