第23話--沈黙の家と届かない音--

朝起きると、家の中はいつもと同じ静けさに包まれていた。

リビングには誰もいない。

食卓の上のコーヒーメーカーは冷たく、カップも昨日の場所から動いていない。


「……また出張か」


小さく呟いても、返事は返ってこない。

母はもう何年も前から家を離れていて、

父と姉はそれぞれ仕事に追われて、ほとんど顔を合わせることがなくなった。

この広い家に、いまいるのは私ひとりだけ。


冷蔵庫を開けても、そこにあるのはペットボトルの水とパンだけ。

適当にトーストを焼いて、窓際の席に座る。

外は薄く雪が積もり、街の音が遠くで霞んでいる。


「冬、って静かすぎる」


口に出すと、それが自分の声だという実感すら薄れていった。



少し前までは、寒さなんて気にもしていなかった。

学校で誰かと話すことも少なかったし、

授業が終われば屋上に行くか真っすぐ帰って本を読んでいた。

それが、いつの間にか――。


彩が笑うたび、胸の奥で小さな音が鳴るようになった。

それは、静けさを壊すようで、でもどこか心地よかった。


あの放課後、

屋上で風に吹かれながらチョーカーを外してやった瞬間、

彩が一瞬だけ見せた顔が、今でも頭から離れない。

安心しているようで、泣きそうにも見えた。


あの表情を見てしまったとき、

私は何かを取り戻した気がした。


それが何なのか、今でもよく分からない。

けれど――。


私はあのとき、無意識にあのチョーカーを握りしめていた。

帰り道でポケットに入れて、それから何度も触った。

冷たいのに、妙に温かい感触だった。



いま、そのチョーカーは私の首にある。

初めてつけたとき、違和感があった。

けれど、慣れてくると、

まるでそこにずっとあったものみたいに感じるようになった。


「……彩、はどうしてるんだろう」


思わず名前を口に出す。

それだけで胸が少し痛くなる。


彼女がスフェーンを身につけて、

指先で何度も触れていた姿が思い浮かぶ。

きっと今も、あの光を大切にしているんだろう。


私が渡したものなのに、

もう私の手から離れて、彼女の世界で生きている。


そのことが、少しだけ寂しい。

でも、それ以上に――少し誇らしかった。



午後。

ノートを開いてみても、文字は頭に入ってこない。

何かを書こうとしても、ペン先が止まる。


そのとき、机の上のスマホがかすかに光った。

画面には、「黒田 澪」の名前。


久しぶりに見るその名前に、少しだけ眉が動いた。

1年のころ、隣の席でよく話していた子だ。


「ねえ凛、冬休みひまだったら一緒にどっか行かない?」


画面に表示されたその一文を見つめる。

誘ってくれるのが嬉しくないわけじゃない。

でも、胸の奥で小さく抵抗が生まれた。


“誰かと過ごす”という感覚に、

まだ体が慣れていない。


メッセージを閉じて、

代わりにペンを取った。


ノートの隅に、小さな文字で書く。


「会いたい」


それが誰に向けた言葉なのか、

自分でもはっきりとは分からない。

ただ、その一言だけが、

今の私を確かに現している気がした。


夜になっても雪は降り続いていた。

外灯の下、白い粒が舞う。

窓に映る自分の姿を見ながら、

私はそっとチョーカーに触れる。


その瞬間、心のどこかが静かに震えた。


まるで、遠くで誰かが自分の名前を呼んでいるような――

そんな気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る