第17話--屋上に還る--
冬の午後は、どこか時間の流れが鈍い。
校舎の窓越しに射し込む光は淡く、白く濁って、
まるで世界そのものが息を潜めているようだった。
私は放課後、ひとりで屋上へ向かっていた。
あの日以来、何度も行こうとして、何度も途中で引き返した。
けれど今日は違った。どうしても、確かめたいことがあったから。
鉄の扉を押し開けると、冷たい風が頬を刺す。
手袋の中の指がわずかに震えているのは寒さのせいか、それとも緊張か
――自分でもわからない。
少し前まで、冬の冷たさなんて気にも留めていなかった。
私の家にはもう、私を迎える人はいない。
母はずっと前に私を置いて出て行き、父と姉は仕事に追われ、
帰ってくることも滅多にない。
いつの間にか、玄関の灯りをつけるのも、私だけになっていた。
静まり返った家の中で、あの夜の時計の音が妙に大きく響いたことを今も覚えている。
その静けさに、少しずつ、心のどこかが擦り切れていくのを感じていた。
だから――あのとき、私は彼女にチョーカーをつけさせた。
ただの気まぐれ。
けれど本当は、ほんの少しだけ、温かさが欲しかったのかもしれない。
彩がそれを首にかけた瞬間、なぜだか胸の奥がじんわりと熱くなった。
その感覚に名前をつけることは、怖くてできなかったけれど。
屋上の柵にもたれて空を見上げる。
曇り空の向こうに、うっすらと夕陽の光が滲んでいた。
少しして、足音が近づいてくる。
「……凛?」
聞き慣れた声。
振り向くと、彩が立っていた。白いマフラーに顔を半分埋めて、少し息を切らしている。
その姿を見ただけで、胸の奥の何かがほどけていくのがわかった。
「来てくれたんだ」
自分でも驚くほど、声が柔らかくなっていた。
彩は少し眉を寄せて、「呼んだの、凛でしょ」と呟く。
「……そうだね」
沈黙が、冷気のように二人の間に流れた。
それでも、言わなければいけないことがあった。
私はゆっくりと自分の首もとに手を伸ばす。そこには――あの黒いチョーカーがあった。
彩がずっとつけていたもの。
気づけば私は、それを外せずに身につけていた。
「それ……」
彩の声が揺れる。
私は微かに笑って答えた。
「返そうと思ったんだけど、なんか……外せなくなってた」
彩は少し目を見開いたあと、小さく笑った。
その笑顔が、冷たい風の中でやけにまぶしく見えた。
「似合ってるよ、凛」
「……そう?」
「うん。なんか、前より少し柔らかく見える」
その言葉に、胸の奥がじんと痛んだ。
私が柔らかくなったのではない。
彩が、私の世界を少しだけ温かくしただけ。
でも、それを言葉にするのはまだ早い気がした。
しばらく、二人で無言のまま並んで空を見上げた。
遠くでチャイムが鳴り、白い雲の隙間から光が零れる。
その光が、彩の髪に反射して金色に揺れた。
それを見ていると、ふとあの日のことが蘇る。
チョーカーの留め金が閉じる音。
その瞬間、私の中で何かが確かに変わったのだ。
「ねえ、凛」
彩がそっと呼んだ。
「このチョーカー、まだ……つけてていいの?」
風が一瞬、音をさらっていった。
私は息を吸い込み、言葉を選ぶように答える。
「……いいよ。
でも、今度は“つける理由”を、決めたい」
そう言って、私は彩の首にかかるネックレスに指を伸ばす。
指先が触れた瞬間、彩の肩がびくりと動いた。
その反応に胸が鳴る。
寒さとは違う熱が、指先から伝わっていった。
「理由って……?」
「まだ秘密。
でも、前みたいに“一週間だけ”なんて言わない。
今度は……終わりを決めないままで、いい?」
彩は少し驚いたように目を見開き、そしてゆっくりと頷いた。
その瞳に映る自分の姿が、かすかに震えて見えた。
屋上の風は相変わらず冷たい。
でも、頬を刺すその冷たささえも、少しだけ心地よかった。
――もう少しだけ、このままでいい。
そう思いながら、私は無意識に自分のチョーカーへ指を伸ばした。
それは、もう“彩のもの”ではなく、“私たちのもの”になっていた。
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