規則の番人
河村 恵
影の足音
「危ない、行くな」
見知らぬ男に腕を掴まれた。
「ちょっと何すんだよ! 急いんだよ」
その男は、僕の腕をつかんだまま遠くを見ていた。
「あっ」と小さな声をあげると同時に顔を背けた。
キキーッ
信号が赤になってから横断歩道を駆けて行った人の背中に、横から黒い影がものすごい速さでぶつかっていった。
「まじかよ?何だよあの車!
あの人、大丈夫……なわけないよな」
まだ腕をつかんでいる男の方を振り返り、僕は「救急車…救急車」と言おうとしたが体が震えてうまく言葉にならなかった。
横断歩道を見ると、黒い影が再び現れ、倒れている人を棒で突くのが見えた。一瞬黒い煙があがり、その人の姿は消えてしまった。
「え…」
「なにもしらんのだな。あれがルール警隊だよ。まさか初めてみたのか?」
僕はうつむいた。
ショックだった。
「何なんだよ、ルール警隊って」
「われわれはルールを守る義務がある。たとえどんなに小さくても、だ。それを強制的に取り締まるのがあいつらだ」
僕は、男が嘘をついているのかと思った。
だが、男の目は嘘をついているようには見えなかった。
「もしかして、さっき引き留めてくれたのは、僕を守るため…」
男は僕の腕を乱暴に離し、手の汚れを落とすかのように払った。
「ふん、自分で考えろ、さ、青だぞ。急いでいるんだろう、行った行った」
僕は帽子を脱いで男に頭を下げてから、左右を確認して横断歩道を渡った。
振り返ると男はもう見えなかった。
帰宅するとすぐに夕食の時間だった。
母の表情が珍しく暗い。
「このごろのルール警隊、ちょっと厳しすぎるんじゃ」母がつぶやくように言った。
「そんなこと言うんじゃない! 誰かに聞かれでもしたら消されちまうぞ」
父は強い声で言ったが、表情にはやるせなさがありありと見てとれた。
「すみません」
その日のカレーは味がほとんどしなかった。
後で分かったことだが、その日、母の友人が消されたようだった。
翌朝、母は鬼の形相で僕を叩き起こし、車に押し込み学校のそばでおろしてくれた。
こんなことされてむかつかないはずがない。
車に乗るのを何度も拒否したが、母の気迫はみたことがないくらいで圧倒されてしまった。
「じゃ、いってくる」
ふりかえると、母は祈るようなポーズで僕を見ていた。
「なに? おおげさ」吐き捨てるように言った。
「いいから、早くいきなさい…無事に帰ってくるのよ」
そうか、ルール警隊に監視されているのかもしれないのだ。
僕は走った。
校門の前で僕はギリギリ時間に間に合った。
昇降口で上履きに履き替えていると、女子生徒の声が上がった。
「なに?!」
「まさか!」
「やめて!これ以上犠牲者でないで」
「あいつだよ、5組のやま・・・」
「山垣?あいつがそんなへまするなんて、まちがいだろ」
「やばいやばい、遅刻すると消されるってよ。早く行けよ」
昇降口にいる生徒たちは我先にと走り出した。
僕は校門を閉める用務員のおじさんが手を合わせているのを見て、僕も思わず手を合わせていた。
用務員のおじさん僕を見て顎で「行け」と合図した。
「なんていやな夢を見てるんだろう」僕は頬をぴしゃりと叩いた。
階段をのぼり、廊下を歩いていると黒い影が脇をすり抜けていった。
影はかおりちゃんのいるクラスの前で消えた。
かおりちゃんは僕の好きな女子だ。
気持ちこそ伝えていないが、部活も同じで、家も近くよく一緒に下校する。
ぼくはかおりちゃんが心配だった。
だが、かおりちゃんは隣の隣のクラスで、よそのクラスに入ることはそれこそルール違反になる。
とにかく1時間目は授業どころではなかった。休み時間まで心臓の鼓動がうるさいくらい鳴り続けていた。
かおりちゃんは無事だった。僕が見た影は見間違えだったのかもしれない。
昼休み、僕はおそるおそる田中に聞いてみた。田中はクラスメイトの一人で、情報屋というあだ名を持っている。
「山垣はどうして?」
田中は周りを見回してから小声で答えた。
「遅刻だよ。急げって言ったんだけど。ほんと、残念だよな」
「俺たち、どこで見張られてるの?」
「しーっ」田中は慌てて僕の口を手で覆った。
田中の視線を追う。
僕は教室の隅を見た。黒い小さな箱のようなものが天井の角に設置されている。いつからあったんだろう。
「あれ、なに?」
「監視カメラだよ。音も拾ってる」
鳥肌がたった。
放課後、かおりちゃんが僕の教室の前で待っていた。
「あの、ちょっと話があるの」
人目のない階段の踊り場で、かおりちゃんは震えた声で言った。
「昨日の夜、うちの前にあの黒い車が止まってた。お母さんがすごく怖がってて」
「なんで?」
「わからない。でも、最近私たち、何かルール破ったかな?」
僕は昨日横断歩道での出来事を思い出した。あの時、もし男性に止められなかったら、僕も消されていた。
「かおり、今度から気をつけよう。何か変だと思ったら、すぐに逃げて」
「うん」
その時、階段の下から微かな機械音が聞こえた。重く、規則正しい足音のようでもあった。
僕たちは身を寄せ合った。
足音は僕たちの階を通り過ぎていく。ほっとしたその時、足音が止まった。
しばらく静寂が続いた後、再び足音が聞こえ始めた。今度は僕たちに向かってくる。
「逃げよう」
僕たちは反対側の階段に向かった。だが途中の廊下で、黒い制服を着た人影が立っているのが見えた。
手には例の棒のようなものを持っている。
僕たちは元来た階段に戻った。しかしそこにも同じような人影が現れた。
挟み撃ちだった。
「なんでだよ。俺たち何もしてない」
僕は必死に声を絞り出した。
黒い制服の男が口を開いた。
「規則第十七条。校内での密会行為。規則第二十三条。監視装置への言及」
「え?」
「処分を執行する」
男が棒を構えた時、突然校内放送が鳴り響いた。
「緊急事態発生。全校生徒は速やかに避難してください」
廊下が慌ただしくなり、生徒たちの足音が響いた。
混乱に乗じて、僕たちは人波に紛れて逃げることができた。
校庭に出ると、用務員のおじさんが待っていた。
「こっちだ、急げ」
おじさんは僕たちを校門裏の小屋に連れて行った。
「あいつらはすぐに気づく」
「おじさん、何なんですか、これは」
「三年前から始まった。最初はもっと重大なルール違反だけだった。でも段々と些細なことでも処分されるようになった。今じゃ、ちょっと声を上げただけでも」
外から規則正しい足音が近づいてくる。
「裏門から出ろ。家には帰るな。しばらく隠れていろ」
「でも」
「いいから行け!」
僕たちは裏門から校外に出た。
振り返ると、小屋から黒い煙が上がっているのが見えた。
かおりちゃんが泣き出した。
「私たちのために…。これからどうしよう。家にも帰れない」
僕は彼女の手を握った。
「大丈夫。きっと他にも逃げてる人がいる」
夕日が沈みかけた町を見渡すと、あちこちから黒い煙が立ち上っていた。
僕たちの逃亡が、今始まった。
規則の番人 河村 恵 @megumi-kawamura
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます