虚構の戴冠
長野智
プロローグ
第1話
彼は幼い頃から、自身が特別幸福であると思ったことはなかった。それは両親が幸福そうではない態度であったからかもしれないし、彼にどこか達観した性質があり、両親が彼に対して構える「壁」に気付いていたからかもしれない。
彼は齢七歳にして、とても冷めた子どもであった。
「リヒト、どうしたの? こちらにいらっしゃい」
母が呼ぶ。母はたいそう美しい顔を緩ませ、彼に笑いかけた。
「リヒトはあまり笑わないのね。毎日退屈?」
彼はのんびりと、母の隣に座る。
天気の良い日だった。人里離れたところにある小屋のような家の外で、二人は並んで座っていた。
「母さんこそ、いつも退屈そう」
「わたしが?」
母はクスクスと控えめに笑う。もしもこの場に誰かが居たなら、みな見惚れていただろう。しかし彼は何の感情も浮かばない顔で、ただじっと母を見ている。
「そうねぇ……わたしは諦めたのよ。幸せになることを」
「どういうこと?」
「お父さんもそう。わたしたちは疲れたの。……この命すら惜しくないわ」
母が彼の頭を撫でる。
「ごめんなさい、リヒト。あなたには、とても酷な未来が待ってる」
「父さんが何か言ってた?」
「ふふ、確かにあの人は未来も見るけれど、わたしには何も言わないわ。心配をかけたくないのね」
父の遺伝である彼の黒髪が、母の指からすり抜けた。母は眩しげに目を細め、何度も髪に触る。
「だからね、わたしも自分で動くことにする。守られてばかりではいられないもの」
「そんな未来も、父さんは知ってるんじゃない?」
「知っていてもね。……あの人はわたしを止めないわ。だって、わたしの性格をよく分かってるもの」
「性格?」
「そうよ。わたしはね、大人しい女じゃないの。だから王妃の立場でも国王から逃げた。おかげでわたしは『国を捨てて東洋人と逃げた悪女』なんて呼ばれるようになったけれど、国王を殺すより逃げただけマシだと思うわ」
風が吹く。彼の髪が揺れるのを見て母は満足そうに笑みを深めると、ようやく彼の頭から手を離した。
「可愛いリヒト。あなたはお父さんの血を濃く継いでいるから、きっととても強くなる。その力を使って、絶対に幸せになってね」
翌日、母が姿を消した。
父はやはり落ち着いていた。母の行動を理解していたのかもしれない。母が帰らないことには何も言わず、父はいつものように振る舞う。
彼には不気味に思えたが、彼は両親の「違和感」に気付いていたから、特に何かを言うことはなかった。
「リヒト、呪術に興味があると言っていたね」
夕食どきに父が尋ねる。母が帰らなくなって三日後のことだった。
「うん。でももうやることない。父さんが渡してくれた本に書いてあったことは出来るようになったよ」
「そうかい、さすがは僕の息子だね。……それなら、新しい呪術を教えよう」
父はにこりと、貼り付けたような笑みを浮かべる。
とはいえ父はいつも胡散臭い顔をしているから、貼り付けたような笑みであることは通常通りだった。
「特別だよ、リヒトだから教えるんだ。僕にはもう出来ないことだけど、リヒトになら出来る」
「父さんはどうして出来ないの?」
かちゃん、と、少々音を立ててスプーンが皿を鳴らした。父の皿だった。
「僕はもう、使ってしまっているからね」
父の言葉の意味は分からなかったが、彼が聞き返すことはなかった。
そしてその数週間後、母が処刑されたという号外が街で配られた。母の首は街で晒され、石を投げられ、酷い有様になっていると書かれていた。
国中が歓喜しているという。彼は気がつけば、持っていた号外を握りしめていた。
※
「ねえ、なんか外に兵士が居るんだけど、大丈夫?」
「店主がとうとう悪いことに手ぇ出したんだろ」
普段は静かなその古書店は、今日はやけに賑やかであった。人も多く、客はどこか落ち着かない。
古書店があるのは、マクィア国の首都、アッセルの中心街である。マクィア国は小さく緑豊かであり、穏やかな国民性で知られている。だからこそ兵士など見慣れてもおらず、兵士がうろついているだけで騒がしくなるのだろう。
騒ぐ客にまぎれるように、やけに大柄な男が居た。フードを深く被っているために顔は見えないが、その怪しい身なりは無駄に目を引いている。あまりに普通ではないため、男の近くに居た客は「犯罪者かもしれない」と、恐怖の目を向けていた。
しかし男は周囲の様子を気にすることなく、まっすぐに奥の棚に向かった。
外国の本が取り扱われている棚である。男はしばらく背表紙を見ながら歩いていたが、不意に足を止める。
男ほど身長が高くなければ見つけられなかったかもしれない。棚の最上段の右端。そこに、背表紙にタイトルのない本を見つけた。男はためらうことなくそれを手に取る。背表紙のタイトルはどうやら、古い本であるために擦れて消えかかっているだけのようだ。くるりと本を翻し、男は表紙を確認する。
そのタイトルを見て、男は訝しげに眉を寄せた。不愉快だと言わんばかりの顔だった。
少し本を睨みつけていたが、やがて男は本を開いた。歪な本である。章に統一性がなく、ページも不揃いだ。しかし男は興味深そうに内容を確認する。
――東洋の"呪い"について。
目次を確認し、その章が始まったところで男はページをめくる手を止め、そのページに目を滑らせる。しかし次には本を閉じ、すぐにレジに向かった。レジ付近には店主のほかに店主に絡む客も居たが、男は遠慮なく本をレジ台に置く。
「ほら、客が来た。あっち行ってろ」
「あ、あんま悪いことすんなよ~」
客の声は震えていた。なんとなくそんな客を見送って、男は「料金は」と店主に問いかける。
しかし店主は本を見て動きを止め、上目に男を見上げた。
「どいつもこいつも不気味なもんだ。……これに値段は無い。持ってけ」
訝しげに男を見ていたかと思えば、店主はすぐに「早く受け取れ」とでも言いたげに男に本を押し付ける。
「これは、十年前に変な東洋人が置いてったもんだ。あんたみたいにフードをかぶってたな。知り合いか?」
「……いや? 知らない」
「そうかい。……その東洋人は『これを求めて来た男に渡してやってくれ』と言ってたな。最初はゴミを捨てやがってと思ったもんだが、まあうちは古書店だからな、なんでも置いてりゃいいって放置してた。……けど奇妙なもんだ。これを持ってきたのは、十年間であんただけだよ」
「その男の特徴は」
男の言葉に、店主は思い出すように難しい顔で腕を組む。
「さあなあ。さっきも言ったように、そいつもフードをかぶってたんだ。なんとか分かることってぇと……東洋人だからか、目も髪も真っ黒だったっけなぁ。ああ、あんたの髪の色とおんなじだ。あんたの目の色は……違うみたいだが」
「……なるほど」
「なんだ、やっぱり知り合いかい」
「……いや、本当に知らないんだよ。だけど多分、相手は俺のことをよく知ってるんだろうな」
ありがとう、もらっていくよ。そう言って、男は古書店を出ようと踵を返す。男がレジを離れると、先ほど追い払われた客がすかさず店主の元に寄ってきて「おい店主、まだ兵士居たぞ」と何やら興奮気味に報告していた。
賑やかな古書店を突っ切り、正面から外に出る。
すると外には確かに、複数の兵士が立っていた。そしてその真ん中に立つ老年の男が、古書店から出てきた男を見て眉を寄せる。
「お待ちしておりました、リーズバング王国第一王子、アベル・ユースタント王子殿下」
古書店から出てきた男――アベルは、どこか驚いたような、あるいは怯えているような目をする老年の男を前に、ようやくフードを外した。
近隣諸国では珍しい闇色の髪が現れた。そこから覗く深紅の瞳は、うんざりとした色を宿している。
「十五年ぶりか、ルーズベルト・アントン。相変わらず性根の悪そうな人相をしてるな」
「アベル殿下こそ、お変わりなく」
ルーズベルトは表情を変えず、ただアベルから目を離さない。アベルが周囲の兵士に視線をやると、兵士はさっと顔を背けた。
「それで、どうしてここに」
「あなたを、我が国の王宮へご案内するためです」
「……俺を王宮へ? 冗談だろ。俺を幽閉するほど気持ち悪がっていた両親は許してるのか?」
「ええ、もちろん。このたび、国王陛下の後継者を正式に決める運びとなりました。その候補者はすべて王宮に招集されます。陛下が、後継者を選びやすくするためです」
ここでは落ち着きませんから、こちらへどうぞ。ルーズベルトはあくまでも淡々とそう告げると、少し先にある馬車に向けて歩き出す。アベルがついて来ると疑っていない仕草である。王の紋章の付いた馬車への乗車を断るわけがないという自信からだろうか。
アベルにはそれが気に食わなかったが、挑むように笑ってルーズベルトの背を追った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます