第3話 二人の来訪と戸惑い
通話が切れた後の静寂は、先ほどまでのそれとは全く異質なものに感じられた。今まで俺の世界を構成していたモニターの光やゲームの電子音は、もはや何の慰めにもならない。俺はスマートフォンをベッドに放り投げ、自分の部屋を改めて見回した。六畳一間。物が少ない、というのが唯一の取り柄だったはずの空間は、週末の怠惰な俺を映し出すかのように、無秩序に散らかっていた。床には脱ぎ散らかした服、テーブルの上にはコンビニ弁当の空き容器と、飲み干したペットボトル。積み上げられた漫画雑誌のタワーは、いつ崩れてもおかしくない角度に傾いている。こんな場所に、あの桜井詩織が来るかもしれない? その想像だけで、全身から血の気が引いていくのが分かった。
俺は半ばパニックになりながら、慌てて部屋の片付けを開始した。まず、テーブルの上のゴミを一つの袋にまとめ、固く口を縛る。漫画雑誌はクローゼットの奥に押し込み、ゲームのコントローラーやヘッドセットも、見えないようにベッドの下へと滑り込ませた。床に散らばった服を拾い上げ、洗濯カゴに叩き込む。拭き掃除をする時間はない。せめて、目に見える範囲だけでも清潔に見せなければ。額に滲む汗を手の甲で拭いながら、俺は必死に動いた。それは、自分のテリトリーに侵入してくる「聖域」の存在に対する、最低限の敬意と、見栄と、そして恐怖心からくる行動だった。
なんとか見れる程度の状態にまで部屋を整えた後、俺はクローゼットから来客用の掛け布団を二枚、追加で取り出した。自分の分と合わせて、三枚。ベッドの上にそれを並べながら、俺は無意識に呟いていた。「一枚は俺、一枚は神宮寺、そして、もう一枚は……」。三人が、それぞれ別の布団で、安全な距離を保って眠る。それが、この状況における唯一の正解のはずだ。俺は「安全」だからこそ、頼られたのだから。そう自分に強く言い聞かせた。
ピンポーン、と、静寂を切り裂くように、無機質なインターホンの音が鳴り響いた。心臓が、喉元までせり上がってくるかのように激しく跳ねる。来た。来てしまった。俺は一度、深呼吸をして、震える手でドアノブに手をかけた。ゆっくりと、しかし、覚悟を決めてドアを開ける。
そこに立っていたのは、電話の向こうで聞こえた声の主、神宮寺瑠璃だった。小柄な彼女は、不安そうな表情で俺を見上げている。だが、俺の視線は、すぐに彼女の後ろにいる存在に釘付けになった。そこにいたのは、紛れもなく、大和撫子という言葉をそのまま体現したような美少女、桜井詩織だった。肩まで伸びた艶やかな黒髪、少し潤んだ大きな瞳、そして、申し訳なさそうに、しかし、凛とした佇まいでそこに立つ姿。俺は、思考が停止するのを感じた。
「……なんで、詩織が?」
ほとんど無意識のうちに、俺の口から本音が漏れ出ていた。瑠璃は、俺のその言葉を聞いて、少しだけ安堵したような表情を浮かべた。
「ごめんなさい、陽介センパイ。詩織も、終電逃しちゃって……。山岸先輩がしつこくて、二人だけじゃ本当に怖くて……」
瑠璃が早口で状況を説明する。その隣で、詩織は深々と頭を下げた。
「柊くん、本当にごめんなさい……。私、門限が厳しいから、こんな時間まで外にいること自体、初めてで……。迷惑をかけてしまって、本当に……」
消え入りそうな、しかし、芯のある声。その申し訳なさそうな表情を見ていると、俺の胸の奥で、何かが強く締め付けられるような感覚がした。助けなければ。この子を、守らなければ。それは、理屈ではない、本能的な衝動だった。
俺が呆然と立ち尽くしていると、瑠璃が少しだけ悪戯っぽく笑いながら、空気を和ませるように言った。
「でも、陽介センパイのところなら大丈夫だって、私が説得したんです。だってセンパイ、ヘタレだから。それに、童貞でしょ? 私たちを襲う度胸なんてないだろうから、一番安全だって」
その言葉は、再び俺のコンプレックスを的確に抉った。顔が引きつるのが自分でも分かる。だが、不思議と、先ほどのような痛みはなかった。むしろ、彼女たちの前で「無害」だと断定されたことが、俺に奇妙な安堵と、そして、彼女たちを完全に自分の管理下に置いているという、歪んだ優越感を与えていた。
「……いいから、早く入れよ。外じゃ寒いだろ」
俺は、ぶっきらぼうにそう言うと、二人を部屋の中へと招き入れた。彼女たちが俺の狭い部屋に足を踏み入れた瞬間、シャンプーと石鹸の甘い香りが、俺のテリトリーを満たしていく。ドアが閉まる乾いた音が、俺の日常の終わりを告げているように、やけに大きく響いた。
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