記憶の図書館

宇佐見

第1話 迷子の記憶

蒼い光に包まれた螺旋階段を上りながら、真理は自分がなぜここにいるのか思い出せずにいた。


足音が静寂の中に響く。石造りの階段は古めかしく、手すりには見たことのない文字が刻まれている。上を見上げると、階段は雲の向こうまで続いているように見えた。


「ここは…どこ?」


真理の声が空間に吸い込まれていく。記憶を辿ろうとするが、まるで霧の中を手探りするように曖昧だ。確かなのは、自分の名前が真理であることと、何か大切なものを探しているということだけ。


階段を上り切ると、巨大な扉が現れた。黒檀のような深い色合いの木材に、金色の取っ手が輝いている。扉には「記憶の図書館」と刻まれていた。


「記憶の…図書館?」


真理が扉に手をかけると、重厚な扉がゆっくりと開いた。中から温かい光が溢れ出し、古い紙の匂いが鼻をくすぐる。


図書館の内部は想像を絶する広さだった。天井は見えないほど高く、無数の本棚が迷路のように配置されている。本棚の間を縫うように、光る粒子がゆらゆらと舞っていた。


「いらっしゃいませ」


振り返ると、白髪の老人が微笑んでいた。紺色のローブを身にまとい、胸元には星座が刺繍されている。その瞳は深い青で、まるで夜空のように輝いていた。


「あなたは…?」


「私はアルキメデス、この図書館の司書です」


老人は丁寧に頭を下げた。


「あなたは記憶を探しに来られたのですね」


「記憶を…探しに?」


真理は困惑した。確かに何かを探している感覚はあったが、それが記憶だとは思っていなかった。


「ここは失われた記憶が集まる場所です」


アルキメデスは本棚を指差した。


「人々が忘れてしまった大切な想い出、消えてしまった愛する人の面影、そして封印された過去の真実。それらすべてが本という形でここに保管されています」


真理は本棚に近づいた。背表紙には人の名前らしきものが書かれている。『田中花子の初恋』『山田太郎の母の子守歌』『佐藤美咲の消えた夏休み』…


「私の記憶も、ここにあるんですか?」


「もちろんです」アルキメデスは優しく頷いた。「ただし、記憶の本を読むことには代償が伴います」


「代償?」


「記憶を取り戻すたびに、別の何かを失うのです。それでも、あなたは自分の記憶を探しますか?」


真理は迷った。失った記憶がどれほど大切なものかも分からない。それでも、この胸の奥にある空虚感を埋めたい気持ちは確かにあった。


「探します」


真理の決意を聞いたアルキメデスは、深くため息をついた。


「分かりました。では、あなたの記憶の在り処を探してみましょう」


司書は杖を取り出し、宙に向かって何かを呟いた。すると、図書館中の光る粒子が一斉に動き始めた。粒子たちは螺旋を描きながら舞い上がり、やがて一つの方向を指し示した。


「あちらです」


アルキメデスに導かれ、真理は本棚の迷路を進んだ。途中、いくつもの本が彼女の注意を引いた。『失われた故郷の味』『初めて飼った犬との別れ』『叶わなかった約束』…どれも胸を締め付けるようなタイトルばかりだった。


やがて、二人は図書館の最奥部にある特別な書架の前に着いた。そこには一冊だけ、金色に輝く本が置かれていた。


「これが…私の記憶?」


真理が手を伸ばすと、本は温かかった。表紙には『真理の失われた十年』と書かれている。


「十年…?私、十年分の記憶を失っているの?」


「その本を開けば分かります。ただし、覚悟をしてください。失われた記憶には、忘れるべき理由があったのかもしれません」


真理は本を胸に抱いた。重くて温かい。まるで生きているかのようだった。


「私は…私は思い出したいんです。どんな代償を払っても」


アルキメデスは悲しそうな表情を浮かべた。


「そうですか。では、読書室をご案内しましょう。そこでゆっくりと、あなたの記憶と向き合ってください」


司書は真理を奥の小さな部屋に案内した。部屋には古い木製の机と椅子、そして小さな窓があった。窓の外には星空が広がっている。


「記憶を読み終えたら、私に声をかけてください。それでは…」


アルキメデスが部屋を出ていくと、真理は一人になった。机の上に金色の本を置き、深呼吸をする。


「私の十年間…何を忘れてしまったんだろう」


本を開こうとしたとき、扉が軽くノックされた。


「失礼します」


現れたのは、真理と同じくらいの年齢の青年だった。茶色の髪に優しい瞳、どこか見覚えのある顔立ち。


「あなたは…?」


「僕は翔太。君と同じように、記憶を探しに来たんだ」青年は微笑んだ。「でも僕の場合は少し違う。失われた記憶じゃなくて、誰かとの共有記憶を探している」


「共有記憶?」


「二人で作った想い出。でも、片方が忘れてしまうと、その記憶は宙に浮いてしまうんだ。だからここにやってくる」


翔太は真理の手元の本を見つめた。


「『真理の失われた十年』…君が真理ちゃんなのか」


真理の心臓が跳ねた。この青年は自分を知っている。


「あなた…私を知ってるの?」


翔太は複雑な表情を浮かべた。


「僕が探しているのは、『真理と翔太の約束』という本なんだ。十年前、君と僕が交わした約束の記憶」


真理の手が震えた。十年前。この青年と自分には、何かつながりがあるのだろうか。


「一緒に探そうか」


翔太は優しく提案した。


「君の失われた記憶と、僕たちの共有記憶。きっと関係があるはずだ」


真理は頷いた。一人で記憶と向き合うのは怖かったが、この青年となら大丈夫な気がした。


二人は金色の本を開いた。最初のページには、美しい文字で一行だけ書かれていた。


『すべては、あの夏の日から始まった』


その文字を読んだ瞬間、真理の頭に激しい痛みが走った。そして、薄っすらと映像が浮かんだ。青い海、白い砂浜、そして隣に立つ一人の少年の姿—。


「翔太…?」


真理が顔を上げると、翔太も同じように記憶の断片を見ているようだった。


「思い出した…君は、僕の…」


そのとき、図書館全体が激しく揺れた。本棚から本が落ち、光る粒子が慌ただしく舞い踊る。


アルキメデスの声が響いた。


「記憶の干渉です!二つの記憶が共鳴している!」


真理と翔太は手を取り合った。これから何が起こるのか分からないが、一つだけ確かなことがあった。


彼らの失われた記憶は、きっと運命を変える鍵を握っているということを。


記憶の図書館で、二人の物語が始まろうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る