ドライブ・マイ・カー
ドライブ・マイ・カー
ビートルズの「Baby, You Can Drive My Car」は、軽やかなロックンロールのリズムに乗せて歌われる、少し風変わりなラブソングである。一見すると、恋人に車の鍵を差し出すような、親密で微笑ましい情景が浮かぶ。しかし、耳を澄ませて歌詞を追っていくと、そこにあるのは甘い恋ではなく、どこか現実的で、打算的ですらある関係性である。
「あなたを愛するわ、でも成功しない男とは付き合えない」――この一節ほど、この曲の本質を言い当てる言葉はない。愛の告白であると同時に、条件提示でもあるその言葉は、恋がいつのまにか契約に変わってしまう瞬間を捉えている。ビートルズはこの現実を、深刻ぶらず、むしろ陽気に、踊るようなビートに乗せて差し出す。その軽さこそが、かえって彼女の言葉の冷たさを際立たせている。
「ドライブ・マイ・カー」という言葉は、ここでは単なる移動手段を意味していない。それは恋人関係の比喩であり、ひいては人生の運転席を誰が握るのか、という問いにまで拡張される。君に運転させる、という言葉は、一見すると自由を許しているようで、実際には行き先も速度も、すでに決められているようにも聞こえる。恋とは、自由の仮面をかぶった不自由なのかもしれない――そんな苦い余韻が、この陽気な曲には忍ばされている。
ところが、ここで「ドライブ・マイ・カー」という言葉は、まったく別の意味を帯びて、現代日本文学の中に現れる。村上春樹の短編「ドライブ・マイ・カー」である。そこに描かれる車は、恋の駆け引きの舞台ではない。むしろそれは、記憶と後悔と沈黙を運ぶ密室であり、過去を置き去りにできない人間の内側を映す装置として存在している。
村上作品の車は、どこかへ向かうためというより、何かから逃れられないために走っている。ハンドルを握る者が変わっても、助手席に座る人間が変わっても、車内には失われた人の気配が、湿った空気のように残りつづける。ビートルズの車が未来へ走るのだとすれば、村上春樹の車は、過去と並走している。
同じ言葉、同じ題名。それなのに、そこに込められた意味は正反対である。ビートルズの「ドライブ・マイ・カー」は、六〇年代的な成功信仰と若さの勢いを背景にしている。夢を見ろ、走れ、世界をつかめ。そんな直線的で、疑いのない明るさがある。
一方で、村上春樹の「ドライブ・マイ・カー」は、人生はそんなに単純ではない、とつぶやくような作品である。取り返せない過去は、どんなにスピードを上げても振り切れない。人はときに、誰かの人生の助手席に座り、行き先もわからぬまま揺られる存在でしかない。
ここで避けて通れない問いが浮かんでくる。
なぜ村上春樹は、あえてビートルズと同じ題名を、この作品に与えたのか。
「ノルウェイの森」が、ビートルズの楽曲名をそのまま使いながら、社会現象になるほどの成功を収めたことは、あまりにも有名である。曲と物語が重なり合い、音楽を聴けば小説の情景が浮かび、小説を読めば旋律が脳内に流れる。あの密着感は、文学と音楽の幸福な融合に見えた。
では、「ドライブ・マイ・カー」も、いわば“柳の下のどじょう”だったのだろうか。再びビートルズの名を借りることで、読者を惹きつけようとした戦略だったのだろうか。
もしそうなら、この短編はあまりにも地味で、重く、華やかさに欠けている。恋愛小説としても、成功物語としても、売れ線とは言いがたい内容である。これはむしろ、読者の期待を意図的に裏切る作品である。
おそらくこの題名は“便乗”ではない。“反転”なのだ。
ビートルズの「Drive My Car」を思い浮かべて読み始めた読者は、軽やかな恋物語を無意識に想定するかもしれない。だが開かれたページの向こうにあるのは、沈黙と死と後悔である。その落差こそが、この作品の入口なのである。
村上春樹は、音楽をムードとして使っていない。記号として消費もしていない。あえて有名な曲名を掲げることで、読者の記憶を呼び覚まし、そこから真逆の場所へ連れ出す。そのやり方は、むしろ挑戦的で、意地が悪いほどである。
「ノルウェイの森」が“記憶としての音楽”の物語であるなら、「ドライブ・マイ・カー」は“沈黙としての音楽”の物語である。そこには旋律の代わりに、言葉にならない感情の残響が響いている。
柳の下に、たまたまどじょうがいたのではない。
彼は、水の流れそのものを読んでいたのである。
ビートルズが歌ったのは、「人生は運転できる」という時代の感覚だったのかもしれない。努力すれば、成功すれば、ハンドルは自分の手に戻ってくる。だが村上春樹が描いたのは、「人生は完全には運転できない」という現実だった。人はどうしても、誰かの運転席に座る時間を持たずにはいられない。
それでも、二つの「ドライブ・マイ・カー」は、同じことを語っているのかもしれない。
人は皆、どこかへ向かって走り続けている、という事実である。
アクセルを踏む者もいれば、黙って窓の外を眺める者もいる。歌いながら走る者もいれば、声を失ったまま走る者もいる。そのすべてが、ひとつの人生であり、ひとつのドライブなのだろう。
ビートルズの車が風を切り、村上春樹の車が静寂を運ぶ。
その両方が、今もどこかで走っている。
ビートルズ通信5号 執筆中
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僕のノルウェイの森 いしくらひらき @77hikoboshi
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