彷神伝

リチャードA

第1話

序章

影の中で蠢くもの。


かつて建築材料として石材を切り出していた人工的な洞窟。最奥の切羽部分、今はもう放棄されて、訪れる者もなかった。

じめじめした空気の中、削岩機で削られた壁は、早くも苔に覆われようとしていた。


行き止まりと思われた壁面が、重い石が擦れ合う音とともに左右に割れて開いた。


その奥から全身黒ずくめの服を着た巨漢の男が出てきた。


洞窟を出ると湿った夜気が肌を撫でた。近くに止められた20トントラックの運転席へ無言でよじ登り、キーを捻る。低く唸るディーゼル音が、闇に沈んだ山あいに響いた。

そして、北に向かって走り出した。 


「お前はこれから北に向かい一人の男を事故に見せかけて殺せ。手段は任せる。」


リーダーの命令を思い出しながら、夜の闇に紛れて国道四号を北上していった。


その先に――標的となる男の暮らす町があった。


第一話

突然の死と邂逅


 真冬の空に、冴えた満月が浮かんでいた。


 繁華街から郊外の住宅地に向かう道路は、深夜ということもあって、人通りもなかった。


 月明かりに照らされたその道を、男が歩いていた。

 

 酒に酔っているのか、ふらついている。


男は深沢龍輔と言い、大学を出てから大手の金融会社に30年ほど勤務して、早期リストラに応募して、通常よりも多い退職金を得て、故郷へ戻ってきたのだった。



 今は金融会社時代の経験を活かしてサービサーの会社でアルバイトをしていた。

 時給が千円を少し上回る額であり、実質的には貯金を取り崩しながら生活していた。


 結婚はしていたが、子供はなく、妻の典子とは歳の差が12歳以上もあり、話も合うとは言えなかった。

家族は、そのほかに飼い猫のハルがいる。子供がいない分、可愛がっており、ハルも二人に懐いていた。龍輔がウイスキーをストレートで飲む際にチェイサーとして用意する水を我が物顔で飲むので、ついにはハル専用のグラスまで用意して晩酌に付き合わせていた。


典子は、料理も人並み以上であり不満もなかった。

無口であることを除けばである。


龍輔自身も似たような性格であったから、余計にそう感じたのだろう。



※※※※※※


時おり、西風に乗った粉雪が龍輔の頬に降りかかった。

酒の酔いにほてった頬には快く感じられた。


久しぶりの友人との酒で羽目を外して飲んだ帰りである。


数少ない友人、武坂善雄は、小学校の頃からの付き合いであり、気の合う仲間として付き合ってきた。

「実家に帰って、ひと段落したら飲もうな」


いつ約束したのか思い出せないほど前の約束を、やっと果たしたのだった。


武坂はイタリア料理を中心に地中海料理を得意とするシェフであり、今は店を息子に任せて相談役と言う気軽な身分だった。したたかに飲んで、息子に迎えに来てもらった友人を送り出して、龍輔は自宅への道を歩き出した。


店を出た当初はそれほど酔ったとは思っていなかったが、タバコをくわえて歩いているうちに、急に酔いが回った。


 最近は居酒屋で呑んでいてもタバコは文字通り煙たがられて、龍輔はタバコを我慢していたのである。


歩きながらタバコを吸えば、呑んだ酒が急激に回ることはよくあることで、龍輔は、ふらつく足取りで峠の切り通しの道を歩いていた。


遠回りすれば、峠道を通らなくても帰れるのだが、子供の頃から慣れている近道を通るのが当たり前だった。


この道は、峠道の頂上で軽く左カーブしており、峠の反対側への見通しは良くなかった。

まあ、道が舗装される以前から歩き慣れていた龍輔にとっては、歩道のあるなしや、幅員が狭いことなど気にもしていなかった。



切り通しの法面の上は杉の大木が繁り鬱蒼とした森であった、また反対側の法面の上は住宅地になっていた。

今は灯りも点いていない。


龍輔が峠のカーブに差しかかると、峠の向こう側から、強烈なヘッドライトのビームが龍輔を包み込んだ。


無灯火で接近して来ていた大型トラックが、急にヘッドライトを点灯して龍輔の身体に突っ込んだ。酒に酔っている上、ライトに幻惑された龍輔はひとたまりもなく跳ね飛ばされ、法面に叩きつけられて、そのまま路面へと、ずり落ちた。


その龍輔の身体の上をトラックのタイヤがご丁寧にゆっくりと通過していった。


そう、これは事故ではなく殺人だったのだ。


トラックの後輪が龍輔の身体を乗り越えて停まり、降りて来た運転手が倒れている龍輔に近づいた。

人間離れした巨体の男である。


油断のない身のこなしで龍輔の身体を蹴り転がした。

すでに意識もない龍輔はただ転がった。


 「悪く思うなよ、おとなしく、あの世に行ってくれ。」


 意味不明なつぶやきを残し、男は運転席に戻り、エンジン音を轟かせて、闇の中に消えていった。

龍輔の血が路面を染めていた。



 冷たい風だけが吹き抜けて、路上に無惨な姿を晒した龍輔が横たわっていた。



 どれくらいの時間が過ぎたのか、いつの間にか粉雪が風に乗って龍輔の身体を覆い隠そうとしていた。


 粉雪のように見えたが、よく見ると粉雪ではなかった。


 そして龍輔の身体を覆い隠したまま銀色の鈍い光を発していたが、しばらくすると解けるように消えていった。


 また、時が過ぎて、なんと不思議なことにトラックに轢かれ息絶えたはずの龍輔が目を開け、ゆっくりと立ち上がると、何事もなかったかのように歩き出した。


月の光に照らされたその姿には、大型トラックに轢き潰された痕跡はなく、服だけが汚れていた。

さっきまでのふらついた足取りではなく、別人の足取りである。

しかしゆっくりした歩みはぎこちないものであった。


龍輔が立ち去ったあとには、路面を染めていた血痕すら消えており、何事もなかったように月の光の中を雪混じりの風が吹き抜けるだけだった。

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彷神伝 リチャードA @richard1104

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