星が繋いだ未来
月島朔が、来月には島を去る。
その事実は、じわじわと私を蝕む鈍い痛みとなって心に居座った。あれほど楽しかったイベントの準備が、まるで彼との別れへのカウントダウンのように感じられてしまう。
「海野さん?ここのプロジェクターの配置ですが…」
「あ、はい!すみません、すぐ行きます!」
打ち合わせ中も、彼の声が聞こえるたびに心臓が跳ね、同時にきゅっと締め付けられる。彼に会いたい。でも、会えば会うほど、別れの時が来るのが怖くなる。そんな矛盾した感情を抱えながら、私は彼に対してどこかぎこちない態度しかとれなくなっていた。
「最近、何かありましたか。疲れているように見えますが」
ある日、観測所で二人きりになった時、彼が心配そうに私の顔を覗き込んだ。フレームの細い眼鏡の奥の、真っ直ぐな瞳。その優しさが、今は辛かった。
「な、なんでもないです!イベント前で、ちょっと寝不足なだけですから!」
私はわざと明るい声を張り上げ、彼の視線から逃れるように資料の整理を始めた。違う。本当はあなたのせいで、胸がいっぱいなんです。そう叫びだしたい気持ちを、奥歯を噛み締めて飲み込んだ。彼はそれ以上何も聞いてこなかったが、私たちの間には、目に見えない薄い壁ができてしまったようだった。
それでも、時間は容赦なく過ぎていく。イベントの準備は着々と進み、島にはポスターが貼られ、観光客向けのパンフレットも完成した。島の誰もが、イベントの日を心待ちにしている。私も、このプロジェクトの担当者として、個人的な感情に溺れているわけにはいかなかった。これは、島の未来がかかった大事な仕事なのだから。
私は残りの二週間、仕事に没頭した。彼への想いは、心の奥の小さな箱にしまい込み、鍵をかけた。彼はいつかいなくなる人。淡い期待を抱いた自分が馬鹿だったのだ。そう何度も自分に言い聞かせた。
そして、運命のイベント当日がやってきた。
空は、雲一つない完璧な快晴。島は、ここ数年見たことがないほどの活気に満ちていた。定期船は臨時便が出るほどの盛況で、港には色とりどりの大漁旗がはためいている。
メイン会場となる小学校の校庭には、島の特産品を売る屋台が並び、子供たちの楽しそうな歓声が響き渡っていた。その光景を見ているだけで、胸が熱くなる。この日のために、頑張ってきて本当によかった。
昼過ぎ、いよいよイベントの目玉であるタイムカプセルの掘り起こしが始まった。町長や島の有力者たち、そして十年前の卒業生代表がスコップを手に、校庭の隅に立つ大きな桜の木の根元を掘り返していく。固い土を掘り進めること三十分。カツン、と硬いものが当たる音がして、会場から「おおー!」という歓声が上がった。
泥だらけのステンレス製の箱が、十年ぶりに太陽の光を浴びる。固く閉ざされた蓋が開けられると、そこには、当時の子供たちが未来の自分へ託した、たくさんの夢が詰まっていた。
壇上で行われる開封式。町長が、少し黄ばんだ封筒を一つ一つ手に取り、名前を読み上げていく。
「〇〇小学校、六年一組、鈴木一郎くん!」
呼ばれた島の青年が、照れくさそうに壇上に上がり、自分の書いた手紙を受け取る。会場は、温かい笑いと拍手に包まれた。
そして、ついに私の名前が呼ばれた。
「海野美月さん」
心臓が大きく鳴る。壇上に上がり、町長から手渡された懐かしい封筒。ゆっくりと封を開き、中の作文用紙を広げた。司会者が、マイクを通して私の手紙を読み上げ始める。
『十年後の私へ。元気ですか?星見島は変わりましたか?』
懐かしい、自分の拙い文字。記憶の底にあった言葉たちが、次々と蘇ってくる。
『私は、今もこの島で、大好きな人と一緒に星を見ていますか?』
その一文が読み上げられた瞬間、会場がひときわ大きな拍手と、優しい笑い声に包まれた。私は顔が熱くなるのを感じながら、壇上からそっと客席に目をやった。たくさんの笑顔の中に、彼の姿を探す。
彼は、少し離れた場所で、腕を組みながら静かに壇上を見つめていた。その瞳は、いつものように冷静でありながら、どこか射抜くような強さがあった。目が合った、と思った瞬間、私は慌てて視線を逸らした。どうして、そんな顔で私を見るのだろう。
陽が落ち、島が藍色の闇に包まれる頃、夜の部である星空観賞会が始まった。会場は、岬の高台にある観測所前の広場。レジャーシートを広げた家族連れやカップルが、夜空を見上げている。
会場の照明がすっと落ちると、途端に、満天の星が私たちの頭上に降り注いだ。都会では決して見ることのできない、本物の星空。会場から、ため息のような歓声が漏れる。
やがて、凛とした彼の声が、静かな夜に響き渡った。
「皆さん、正面の上の方をご覧ください。ひときわ明るく輝いているのが、夏の大三角の一つ、こと座のベガです」
レーザーポインターが描き出す緑の光線が、星と星とを繋いでいく。織姫と彦星の、切ない恋の物語。雄大な銀河の成り立ち。彼が語る宇宙の物語は、まるで魔法のように私たちの心を惹きつけてやまなかった。私は、後片付けをしながら、彼の横顔を盗み見ていた。星を語る彼は、本当に楽しそうで、きらきらと輝いている。この姿を、この声を、ずっと隣で見て、聞いていられたら、どんなに幸せだろう。
観賞会は大成功のうちに幕を閉じ、満足そうな顔で帰っていく人々を見送りながら、私は決意を固めた。最後に、きちんとお礼を言おう。そして、笑顔で彼を送り出すんだ。
「月島さん」
機材を片付けている彼の背中に、私は声をかけた。
「今日まで、本当にありがとうございました。月島さんのおかげで、最高のイベントになりました」
彼は静かに振り返る。
「東京に帰られても、お元気で。素晴らしい研究を続けてください」
さよなら。そう言いかけた私の言葉は、彼によって遮られた。彼が、私の腕を強く掴んだのだ。
「話があります。観測所に来てください」
有無を言わさぬ、強い口調だった。
二人きりの観測所は、しんと静まり返っていた。外の喧騒が嘘のようだ。制御室の、機械のわずかな作動音だけが響いている。
「あの手紙…」
沈黙を破ったのは、彼だった。
「『大好きな人』というのは、誰か、特定の人のことだったんですか?」
まっすぐな問いかけに、心臓が跳ねた。私は俯き、答えに詰まる。
「それは…十年前の、初恋の人のこと、だったはずです。でも…」
でも、と続けた私の声は、涙で震えていた。もう、嘘はつけない。鍵をかけた箱から、想いが溢れ出してくる。
「いつの間にか、私の頭の中には、月島さんのことしかありませんでした。あなたの笑った顔も、怒った顔も、星の話をするときの楽しそうな声も、全部…。でも、あなたは、この島からいなくなってしまうから。だから、この気持ちは、忘れなきゃって…」
堪えきれず、涙が頬を伝った。みっともない。最後の最後で、泣いてしまうなんて。
すると、彼がそっと私に近づき、その指先で私の涙を拭った。
「僕も、同じでした」
「え…?」
「東京に帰ることしか考えていなかった。ここでの仕事は、僕のキャリアの一つのステップでしかないと。…そう、思っていました。君に会うまでは」
彼は、静かに語り始めた。感情論だと切り捨てた島の人々の温かさに触れたこと。ただの仕事相手だったはずの私の、島を愛する真っ直ぐな想いに心を動かされたこと。そして、土星の環を一緒に見上げた夜、隣で瞳を輝かせる私を見て、初めてこの島が、ただの観測場所ではない、特別な場所に変わったこと。
「帰りたくない、と思いました。君がいるこの島に、僕の居場所ができたから」
彼は、一枚の書類を私に見せた。それは、東京の大学と、この星見島観測所の間で交わされた、新しいプロジェクトの承認書だった。
「大学と交渉しました。リモート技術が進んだ今、必ずしも東京にいる必要はない。この島は、日本でも有数の観測地です。ここを拠点にした長期観測プロジェクトを立ち上げる許可を、ようやく取り付けることができた」
信じられない、という顔をする私に、彼は一歩近づき、私の両肩を掴んだ。その瞳は、夜空のどの星よりも真剣に、私だけを見つめていた。
「海野さん。いや、美月さん。君と一緒に、この島の星を見続けたい。僕の隣に、いてくれませんか」
それは、今まで聞いたどんな星の物語よりも、甘く、ロマンチックな告白だった。喜びと驚きで、声が出ない。私はただ、何度も何度も頷いた。涙で滲んだ彼の顔が、世界で一番愛おしいと思った。彼は、そんな私を、そっと強く抱きしめてくれた。
彼の胸に顔を埋めると、彼の心臓の音が聞こえる。私と同じくらい、速くて、力強い音。
その時だった。ウィーン、という静かな音と共に、観測所の天井がゆっくりと開いていく。丸く切り取られた夜空から、満天の星が、まるで祝福のシャワーのように、私たち二人に降り注いだ。
それから、数ヶ月。
星見島は、「星降る島」として、少しずつ活気を取り戻し始めていた。観光協会と観測所が連携した星空ツアーは人気を博し、週末には多くの観光客が訪れるようになった。
そして、私は今、観測所のドームの下、彼の隣に座って星空を見上げている。
「見て、美月。冬の大三角だ」
私の肩を抱き寄せながら、彼が夜空を指差す。その声を聞いているだけで、幸せで胸がいっぱいになる。
十年前の私へ。
島は、少しだけ変わったよ。でも、空に降る星の美しさは、あの頃のまま。
そして、私は今――。
うん。大好きな人と一緒に、最高の星を見てるよ。
私たちは、言葉もなく、ただ静かに、この島に降り注ぐ無限の星々を見上げていた。
星降る島のタイムカプセル はるさき @kazyugonta_7777
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