第37話 運命の皮肉と新たな決意


 あの日、葵先生の腕の中で俺は自分の娘と対面した。その日から季節が一つ変わるかどうかの時間が過ぎた。俺たちの世界は静かに、しかし決定的にその姿を変えてしまった。俺と陽菜そして葵先生と隼人さん。俺たち四人の関係は世間一般の「家族」という言葉では到底括れない。それは歪でどこまでも切ない秘密の構造物の上に成り立っていた。


 数ヶ月が経ち、俺の腕の中で小さな新生児だったあの子は少しずつ成長した。隼人さんによって「優奈(ゆうな)」と名付けられた娘。ようやく首も座り小さな口元に微かな笑みを浮かべるようにもなった。その眠っている時の顔の、眉の形や唇の結び方に、俺は否定しようもなく自分自身の面影を見出していた。

 週末になると俺と陽菜はごく自然な形で隼人さんたちの家を訪れる。それは陽菜にとっては実家への帰省だ。そして俺にとっては娘との週に一度の密会の時間だった。

「お、健太来たか。優奈、健太おじちゃんだぞー」

 隼人さんはいつもと変わらず人の良い笑顔で俺を迎えてくれる。その腕の中で優奈が小さな寝息を立てている。俺は完璧な「優しい叔父さん」の笑顔を浮かべた。そしてその小さな身体をそっと、壊れ物を扱うように抱き上げる。

「寝てるな。可愛いもんだろ」

「はい。本当に、天使みたいですね」

 そんなありふれた平和な会話。しかしその言葉の裏側で俺と葵先生は視線だけで、誰にも知られてはならないもう一つの会話を交わしていた。

 俺が優奈の柔らかな頬を撫でながらふと葵先生に視線を送る。

(この子の寝顔、本当に俺にそっくりですね)

 葵先生はお茶を淹れる手を止め一瞬だけ俺の目を見た。そして優しく、しかしどこか誇らしげに微笑み返す。

(ええ。だってあなたのお嬢さんですもの)

 言葉には出さない二人だけの秘密の対話。それは俺たちの心を罪悪感と、そして禁断の喜びで満たした。


 俺はこの運命の皮肉を少しずつ、しかし確実に受け入れていくしかなかった。

 葵先生が俺の妻の義理の姉になる。そして俺の娘が俺の姪として育っていく。そのまるで出来の悪いメロドラマのような現実。それは時折俺の胸を締め付けるように痛んだ。しかし同時に俺にとっては唯一の救いでもあった。

 もし葵先生があの時全てを捨てて俺を選んでいたら。あるいは全てを秘密にしてどこか遠い場所へ一人で去ってしまっていたら。俺は決してこの子の成長をこんなにもすぐそばで見守ることはできなかっただろう。

 父親だと名乗ることはできない。しかし「叔父さん」として彼女が健やかに眠る顔を覗き込み、小さな手で俺の指を力強く握り返してきたその瞬間を、共有することができる。それは神が俺に与えた罰であり、そしてあまりに甘美な褒美だったのかもしれない。


 葵先生もまたこの歪な関係の中に彼女なりの幸せを見出しているようだった。

 彼女にとって健太との間に生まれたこの子を何不自由なく、そして誰からも祝福される子供として育て上げること。それが彼女が自らに課した人生最大の使命だった。そしてあの狂おしい恋の唯一の落とし前でもあった。

 彼女は健太と結ばれることではなく、彼の遺伝子を彼の未来をこの世に繋ぎとめることを選んだのだ。そして一歩引いた安全な場所から健太が陽菜と幸せな家庭を築いていく姿を、そして自分たちの娘が健やかに育っていく姿を静かに見守り続ける。そのどこまでも母性的で究極的とも言える愛の形に彼女は満足していた。


 ある晴れた日の午後。俺たちは四人で海が見える公園にいた。隼人さんがベビーカーを優しく押している。陽菜と葵先生はベンチに座りその光景を微笑みながら見つめている。

 俺はそのあまりに平和でそしてあまりに完璧な「家族」の絵の中に佇んでいた。そして心の中で葵先生と共に、もう一度あの夜の誓いを反芻していた。

 この「宝物」を守り抜こう。

 俺たちがそれぞれのパートナーを生涯をかけて裏切り続けることになったとしても。このあまりに愛おしい罪の結晶を二人で、それぞれの形で、命を懸けて守り抜くのだと。

 俺たちの奇妙でそしてどこまでも切ない共犯関係は、この子の成長と共にこれからも永遠に続いていく。

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