第35話 新生活
俺と陽菜の新しい生活は、湊高校のすぐ近くにある、小さなアパートの一室で始まった。朝、陽の光で目を覚ますと、隣には愛する婚約者の穏やかな寝顔がある。二人で朝食をとり、俺は教師として、陽菜は大学の最終学年として、それぞれの場所へと向かう。そして夜、家に帰れば「おかえりなさい」という温かい声と、手料理のいい匂いが俺を迎えてくれる。
そんな、どこにでもあるような、しかし俺にとっては奇跡のように尊い、穏やかで幸せな日々。俺は湊高校の英語教師として、生徒たちと向き合う毎日に、確かなやりがいを感じていた。家に帰れば陽菜と今日あった出来事を語り合い、くだらないことで笑い合う。その、あまりに満ち足りた日常は、俺の心をゆっくりと、しかし確実に癒していった。
陽菜とのこの穏やかな生活の中で、俺は、かつて自分の全てを支配した、あの激しい恋の記憶と、ようやく本当の意味で向き合うことができるようになっていた。
早瀬葵先生とのこと。
時折、ふとした瞬間に、彼女の記憶が蘇ることがあった。俺にだけ見せてくれた、あの無防備な素顔。俺の腕の中で初めて女になった夜の、あの切ない表情。その記憶は今でも俺の胸を甘く締め付ける。
しかし、不思議とそこに以前のような、狂おしいほどの執着はなかった。陽菜という、温かく確かな現実が、俺の隣にあるからだ。
俺は葵先生とのあの歪んだ「密約」の日々を、今では自分の成長のために必要不可欠だった、遠い過去の美しい思い出として心の中で整理し、完全に美化することができていた。あれは若さゆえに罹った熱病のようなものだったのだと。あの熱病があったからこそ俺は怠惰な自分を乗り越え夢を見つけ、そして今こうして陽菜の隣で笑うことができているのだと。俺は自分にそう言い聞かせ、過去の全てを肯定して心の引き出しの奥深くに大切にしまい込んだ。
そんなある日、俺の人生にとって一つの決定的な転機が訪れた。
放課後、俺は三年生のクラスで、進路に悩む一人の男子生徒の相談に乗っていた。彼は、かつての俺のように、夢も目標も見つけられず、ただ漠然とした不安を抱えていた。
俺は、彼に自分の過去を、全てではないが、誠実に語って聞かせた。俺も昔はお前と同じように空っぽだったこと。しかし、ある人との出会いが、俺に目標を与え、人生を変えてくれたこと。
俺の言葉を、生徒は食い入るような真剣な眼差しで聞いていた。やがて、彼は顔を上げ、吹っ切れたような顔でこう言った。
「先生、ありがとう。俺、もう少し、自分の心と向き合ってみるよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の全身を、経験したことのないほどの感動が貫いた。
俺は、今、教師として、一人の生徒の心に、確かに何かを届けられたのだ。
その瞬間俺は、葵先生とのあの最後の約束を、本当の意味で果たしたのだと自覚した。教師になるという夢はもはや彼女を追いかけるためのものではない。俺自身の、揺るぎない魂の目標となったのだ。
その夜、俺は家に帰ると、陽菜を強く抱きしめた。
「どうしたの、健太君?」
「……いや。ただ、お前がいてくれて、本当によかったって、思っただけだ」
俺たちは、まだ夫婦ではない。しかし、長年の友情は、恋人という季節を経て、生涯を共にするという、より深く、そしてより強固な絆で結ばれていた。
俺はこの上なく幸せだった。俺の人生は、ようやく嵐の季節を乗り越え、穏やかで輝かしい正しい航路に乗ったのだと、心の底から信じていた。
彼が手に入れたその穏やかな幸福が、彼がまだ知らないたった一つの真実の上に成り立つ、あまりに脆いものであることをこの時の彼は知る由もなかった。
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