第28話 大学生の日常


 大学生活は俺が想像していたよりもずっと穏やかで、そして輝かしいものだった。広大なキャンパスを陽菜と二人で歩く。それだけのことが、どうしようもなく幸福な時間に感じられた。俺たちは同じ教育学部の学生としてほとんどの時間を共に過ごした。

「健太君、ここの教育心理学の課題ってちょっと難しくない?」

「ああ分かる。あの教授、説明は面白いけどレポートは鬼だって隼人さんが言ってたもんな」

「ええーそうなの!?もう、早く言ってよ!」

 緑豊かな中庭のベンチで並んでお弁当を食べる昼休み。図書館の静かな閲覧室で、難しい専門書に共に頭を悩ませる放課後。時には大学近くのカフェでアルバイトに励み、稼いだ金でささやかなデートをする週末。その全てが俺にとっては新鮮で満ち足りた時間だった。高校時代に俺の心を常に占めていた、あの息が詰まるような焦燥感やどす黒い欲望は、陽菜とのこの穏やかな日常の中に雪が溶けるように消えていった。


_陽菜とのオープンで健全な交際は、俺の心を驚くほど安定させた。そしてその安定は、俺にこれまで目を背けてきた過去と向き合う余裕を与えてくれた。

 早瀬葵先生とのこと。

 時折ふとした瞬間に、彼女の記憶が蘇ることがあった。初めてキスをした時のあの唇の感触。俺の腕の中で初めて女になった夜のあの切ない表情。その記憶は今でも俺の胸を甘く締め付ける。

 しかし不思議と、そこに以前のような狂おしいほどの執着はなかった。陽菜という温かく確かな現実が、俺の隣にあるからだ。

 俺は葵先生とのあの歪んだ「密約」の日々を、今では自分の成長のために必要不可欠だった、遠い過去の美しい思い出として心の中で整理し、完全に美化することができていた。あれは若さゆえに罹った熱病のようなものだったのだと。あの熱病があったからこそ俺は怠惰な自分を乗り越え夢を見つけ、そして今こうして陽菜の隣で笑うことができているのだと。俺は自分にそう言い聞かせ、過去の全てを肯定して心の引き出しの奥深くに大切にしまい込んだ。


 そんなある日、俺の人生にとって一つの決定的な転機が訪れた。

 教育方法学の授業の一環で、模擬授業が行われたのだ。学生が交代で教壇に立ち、他の学生を生徒に見立てて十五分間の授業を行う。俺の番が来た時、心臓はこれまでにないほど激しく高鳴っていた。

 教壇に立つ。目の前には俺を見つめる数十の瞳。その視線に足がすくみそうになる。しかし俺が一度声を張り上げ、用意してきた教材を広げると、不思議と恐怖は消えていった。

 俺が選んだテーマは高校英語の関係代名詞。かつて俺自身が最も苦手とし、そして葵先生に近づくための口実として使った、あの因縁の単元だ。

 「いいかみんな。難しく考えるな。関係代名詞ってのは要は、二つの文を一つにくっつけるための超便利な接着剤みたいなもんなんだ」

 俺は俺自身の言葉で、俺自身の経験を交えながら必死に語りかけた。するとどうだろう。これまで退屈そうにしていた学生たちの目が、次第に真剣な光を帯びていくのが分かった。「なるほど」「そういうことか」という小さな呟きが教室のあちこちから聞こえてくる。俺の言葉が彼らに届いている。その事実が俺に、経験したことのないほどの快感と興奮をもたらした。

 あっという間の十五分間。授業が終わった瞬間、教室は温かい拍手に包まれた。俺はチョークで白くなった自分の手のひらを見つめながら確信していた。

 ああ、これだ。俺が本当にやりたかったことは、これなんだ。

 その瞬間俺は、葵先生とのあの最後の約束を、本当の意味で果たしたのだと自覚した。教師になるという夢はもはや彼女を追いかけるためのものではない。俺自身の、揺るぎない魂の目標となったのだ。


 その日の帰り道、俺は興奮冷めやらぬまま、陽菜に模擬授業のことを話した。

 「陽菜、聞いてくれよ。俺、今日すげー楽しかったんだ」

 「うん、見てたよ。すっごく、すっごくかっこよかった。健太君は絶対いい先生になるよ」

 陽菜は自分のことのように心から喜んでくれた。

 俺たちは夕暮れの道を固く手を繋いで歩いた。俺たちの関係はもはや単なる恋人というだけでなく、同じ夢に向かって共に努力するかけがえのない同志、そして生涯のパートナーとしての絆をより一層深めていた。

 俺はこの上なく幸せだった。俺の人生は、ようやく嵐の季節を乗り越え、穏やかで輝かしい正しい航路に乗ったのだと、心の底から信じていた。

 そのすぐ先に、俺の人生を根底から揺るがすほどの巨大な嵐が待ち構えていることなど、知る由もなかった。

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